腐ハウスブログ

腐女子4人でシェアルームしてます。

腐ハウスの毎日とそれぞれの毎日

変な方言にイラッとしてしまうのは何故

先日ツイッターで、大阪の「天王寺」という駅名(?)のアクセントの位置についてのツイートを見かけた。標準語的なアクセントのつけ方を持ち込む非関西ネイティブによってよく間違われるものらしい。
これについて、そらそういうこともあるよね、というのが私の意見である。そういうこともあるよね、というのは、非関西ネイティブにとってはそんなのは分からないので間違えることはままあるが、現地の人から見たらなんじゃそりゃちょっとなおしてくれと言いたくなるようなものだろう、ということである。


私は九州は宮崎と熊本の境の出身でして、自分のネイティブの言葉としてはちょっと宮崎弁ぽさのある熊本弁みたいなやつを喋る。お前今なんばしょっとねー、夕ご飯ば食べとったったーい、みたいなそういうやつ。所謂「九州弁」と言われたときに想像される方言にわりと近いけど、コテコテの熊本弁と比べるとやわらかめというか弱め、かと言って宮崎弁かというと全然違うという曖昧なあたり。たい、ばい、は使うけども、やじ~とかは使わない、ばってん、とかも使わんよ、という感じ。
※ちなみにたい、ばい、は九州全域使っているかと思いきやそうでもない。宮崎弁は使わないですね。


私も例によってテレビのドラマとか漫画で妙テコリンな九州弁を見聞きすると激怒するクチだし「それは宮崎弁じゃなくてどっちかっちゅったら鹿児島やろ!!」とかいちいち突っ込む派なんだけども、前述の天王寺の一件を見ていたら、この怒りとか気になるとか指摘したくなるという気持ちは、果たして何なんだろうか、と思った。

 

中途半端な変な方言に違和感感じて怒ったりするのは地方出身者にはまああるあるかなと思うんですけども、これって単に心が狭いやつなんだろうか。私は今のシェアルームでドラマとかで変な九州弁とか聞くと「おかしいやろー!!」とぷりぷりすること多いけど、大体合意は得られない。まあ、九州出身が私だけなので当たり前かもだが。(私はもともと歴ドラとかで妙テコリンな時代考証できてないやつとか見てもぷりぷりしてしまうので本当に単に心の狭いやつなのかもしれないが)
それにしても、いちいち突っ込んでいると本当に自分が単なる心の狭い人みたいに感じられる。アクセントひとつで、いちいち言うなよ、と言われると、「……そうかなあ……」みたいな、後味の悪い気持ちになるのである。


標準語が母語のひとにはこの手の怒りというのは想像しにくいのだろうか、だって変なんだよ、と説明しても、「別にどうでもいいじゃん」とか「そんなに細かいこと気にしなくてもいいのでは?」という回答も多い。感じられないことについて、溝は深い。


そら心が狭いということだったら、そうなんですかねえ、という気もするけど、なんかなあ、と思う。
その辺のスーパーで売ってるなんちゃってチキン南蛮がどう見てもただのチキンの唐揚げタルタルソースがけになっているのを見ると「それはチキン南蛮じゃなさすぎるだろ!!!唐揚げのタルタルソースがけと名乗れよ!!」と死ぬほど突っ込んだりする狭量さをつい発揮してしまうのだが、かと言って、例えば昨今流行の「海外の妙テコリンなSUSHI屋に乗り込んで本物の寿司を教えちゃうYo!」みたいな番組を見ると「余計なお世話」としか思えない。カリフォルニアロール食ってサーモン食っとけばいいがなみたいな気持ちになる。そして散々言っておきながら日本でインドカレーと呼ばれているものは現地ではもっと細かな分類があってそもそもインドカレー」という呼び方自体が…みたいな話を見ると「そうなのか…しかしよくわからないし食べるぶんにはあんまり気にならないな…」という投げやりな気持ちになる。
この相反する気持ちを自分の中で一貫づけることは難しい。とても難しいと思う。ものすごいダブルスタンダードに陥っている。あるときは心が狭く、あるときは鷹揚で適当。

 

この差は単なる思い入れの差、なのだろうか。
チキン南蛮は宮崎にいた時分それなりによく食べていたし宮崎を代表する料理だし思いいれがあるっちゃああるけども、寿司は別に自分にとって何でもない、ので気にならない。しかしこの論は要するに「自分にとっていかに近しいか」という基準にしかならない。近しいものは気になる、近しくないものは気にならない、たったそれだけのことなんだろうか。物事に対する近さへの個人の感情と、心の狭さに由来するだけのものなのか。そういわれると、いやそうじゃないだろ、と言いたくなる。言いたくなるのは何故なのか。

 


私にとって言葉は私のアイデンティティのひとつである。
私は○○とは違う、というのがアイデンティティの始まりだと思う。私の喋る言葉は標準語とは違う、関西弁とも違う、九州の福岡弁とも熊本弁とも宮崎弁とも違う。私の喋る言葉は、そのどれとも違う、私の出身の集落の人たちしか喋らないものだと思う。私のアイデンティティはその言葉に立脚していて、多分同心円上に「身近さ」みたいなものも広がっているし、知っている度も中心に近いほど濃い。

私の喋る言葉は超of超ローカルなもので、このグローバルな時代にクソローカルな方言ひとつに拘って一体何になるんだと言われると全く反論できない。方言で議論できるわけもなし、ドラマや映画は方言どころか日本語の標準語ですら最早不要では?英語と中国語がわかれば高品質のエンタメは見られますよ?という時代である。最早日本語を解することすらあまり意味が無いのに、そのなかのクソローカル方言に拘って一体何になるのか。

 

しかし、だからこそ、私は多分自分の方言に拘りたくなるのだと思う。何故なら、私にとってそれはコミュニケーションのツールであるだけではなくて、私という人間が、どこでどう育ってどんな人達と一緒にいたかを丸ごと抱え込める唯一のものだから、である。それは、私にとって標準語ではなく、私の方言のみが行えるものである。だから、気になるし、同心円上に存在する「近しい」ものについても、つい何か、言いたくなってしまう。
アイデンティティの置き所について考えてみる。近さ、とはつまりアイデンティティの置き所との近さということかもしれない。

誰でも自分のアイデンティティをないがしろにされるのは嫌だろう。「私はそんなの気にしない」というのは、多分その気にしないことはそのひとにとってアイデンティティではない、ということなのだろうと思う。あるいは、「気にしない」ことこそが、アイデンティティであるか。

 

思うけども、「気にしない」は優しくて度量が深いが、重大に無神経でもある。気にしないよ、と言われれば救われることも多いが、気にしないよ、と言われることで逆にないがしろにされた気持ちにもなる。

 

「ないがしろにされている」ことへの怒りなのかもしれない。
軽んじられている、と感じることに対する怒り。それを軽んじられると、自分も軽んじられていると感じる、という範囲の個別の広がりはあれども。
軽んじるということは、怒る対象とある程度上下関係がないと存在し得ない。軽んじられたくないから怒る、もっときちんと、対等に見て欲しいと思う。要は、怒るか、そうでないか、その怒りがどれほどに「正当性」を持つかは、その上下関係に一番左右されるんじゃないだろうか、少なくともそれが、「正統」なのか「言いがかり」なのか、分けることがほとんど不可能だとしても、分けられるとしたらそれしかないだろうと思う。

 

方言を喋るものにとって、標準語は壁であり天井であり支配者である。標準語がまさしく全ての、ニュースもドラマもアニメも全ての「標準」であるなかで、方言はあるキャラづけのためにしか存在しない。もしくは、存在すらしない。例えば九州弁を喋るキャラ、これはそれだけであきらかに標準語を喋る人たちとは違うものになる。イメージ通りの純朴、頑固なキャラ、或いはそのイメージを逆手に取ったキャラ、しかし九州弁を喋る人間が都会のスマートなイケメンキャラということはまあないであろう。そういう存在に予め設定されている。またそれは一部確かにそうであるから、たちが悪い。実際に方言は、標準語のような洗練された語彙や意味を持っていない。その点について「劣っている」ことは、また事実だと感じる。

子供の頃はせめて関西弁の地域に生まれたかったなあと思っていた。同じなまっているでも関西弁ならカッコがつくが九州弁では単に田舎くさいだけである。と。これを否定できるひとは果たしているか。九州弁が本当にスマートでカッコいいなどと言えるひとがいたらそれは単なる思慮浅であると思う。

 

いちいちアクセントひとつにうるさいのは、方言はローカルなものだからだ。だからこそそれ自身に多様性はない。「多様な宮崎弁」は存在しない。それはひとつひとつが「違う方言」になるのであって、だからこそ、強烈にアイデンティティと結びつく。標準語は多様性を引き受けることができる。それは、標準語がローカルなものではないからだ。ローカルなアイデンティティと結びついていると感じられないから。多分、標準語話者はひとりだけで違う言葉の世界に放り込まれて初めてその言葉のアイデンティティを知るのだろうと思う。そこで初めて、「私は違う」ことを知る。違うことを知らなければ、アイデンティティをそこに置く必要がないから。

 

もちろん、言葉にアイデンティティを置くかどうかはひとによる。そのローカルにアイデンティティを置くかどうかも、ひとによる。人によっては本気でこんな言葉もローカルも捨てて忘れたい、アイデンティティの一片にもしたくない、ということもあると思う。それはそのひとにとっては、捨てることこそがアイデンティティになるのだろうし、無かったことにすることこそが必要なのだと、それもまた理解はできる。

 

 

全ての人に言葉をアイデンティティにしろ、とは絶対思わない。大体が方言なんてのは日本のなかでマジョリティに生まれた日本人にとってそれ以外に自分の属するものや差異を感じることがなくて済んでいる、ちっぽけなアイデンティティの話である。

とはいえ、国ほどの大きな塊には共感を持てなくとも、ローカルレベルには共感を持てることもあり、アイデンティティの範囲の収縮がどのレベルになろうとも、「自分はここに属している」と感じるときの甘い気持ちから逃れるのは難しいと感じる。

 

差異を認めることと、私たちは同じだわかりあおう、と言うことのどちらが正しいのか、わからないが、とりあえずより相対的に世界で支配的なほうが「正しいものを教えてあげよう」というのは大きなお世話だし「気にしないよ」と言うのはデリカシーが無い。と思う。全てはその相対的な上下がどこにあるのか、どっちにあるのか、それを見定める能力を養うことによってのみ担保されると思うがそれすらおぼつかない。

 

変な宮崎弁に怒ることは私にとって「正当な」行為なのか、単なるクレームなのか。

 

とりあえず何かを表現するときは、なるだけ、限りなく、それを「正確に」描写できるよう、調べて、協力してもらうことで避けられるものなら、それをしよう、と思う。

大阪弁のキャラの二次創作はできないが仕方ない。

 インドカレーを本当は何と呼ぶのがいいのか、知らなくともまず、これは本当にインドカレーと呼んでていいのか、と直感的に疑う能力を磨きたい。

自分から伸びる同心円を、広げられたらいいが、きっと私の円の中心は永遠に九州の真ん中あたりにあることもやめられないだろう。