腐ハウスブログ

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オリエンタリズム

オリエンタリズム、という言葉はそれなりに聞いたことのある言葉だけど、それが何なのかと言われると説明できない。
私は大学ではアジア史を勉強したのですが、「オリエンタリズム」についてはきちんと専論を勉強したこともないので(お恥ずかしい限り)、とりあえずすぐに読めたものを少しだけ、ここに紹介しようかなと思います。本当は色々あるはずなので、本当にすぐ読めたものだけです。メモ的に。

まず「オリエンタリズム」とは。

サイードの『オリエンタリズム』を訳した今沢紀子氏が、『東方学』(第73号 1987年1月31日刊行)に「オリエンタリズムをめぐる批判――エドワード・サイード著『オリエンタリズム』に即して」という論考を寄せていた。

 Orientという語はラテン語の「日の出の地」を意味する語を語源にもち、本来は現在中東と呼ばれる地域を指し示す語であったが、時代が下ってヨーロッパ人の視野が、東方に広がるにつれてその指し示す範囲も東方に拡大した。したがって、ヨーロッパ人にとってOrientとは第一義的には中東の諸地域を意味し、ヨーロッパ人によるOrientに関する学問としてのオリエンタリズムも、その中核は中東のイスラム世界における芸術、文学、歴史、宗教等についての研究であって、中世以来の長い伝統を誇ってきた。しかし第二次大戦後、研究対象であったOrient諸地域で民族解放運動が起こり、その結果これらの諸地域がヨーロッパ諸国の植民地支配のもとから脱していったことは、伝統的オリエンタリズムに一大転機をもたらした。すなわち、これ以後オリエンタリズムの内部でいわば体制内改革として、この新しい状況に対応するためのオリエンタリズム強化・再編が模索される一方で、オリエンタリズムを全面的に否定してその終焉を期待する立場に立つ外部からの批判に晒されることになった。

( 1987年 東方学73 199-200 )

 

これがまず「オリエンタリズム」のひとつの意味であろうと思う。そしてさらに、このオリエンタリズムに対して批判を行ったのが、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』(1978年、日本語訳は1986年)という本である。現在では、「オリエンタリズム」と言われるとまず先にサイードの本が思い起こされるのではないだろうか。

 

 エドワード・サイードは1935年、英国の委任統治下にあったパレスティナイェルサレムに生まれた。1930年代半ばといえば、ナチスの迫害を逃れたユダヤ人入植者の急増によってアラブ・パレスティナ人の権利が奪い去られる方向でパレスティナ社会が激動した時期にあたる。その後1948年のイスラエル国家成立前後の混乱と以後数十年間現在に至るまで幾度となく再燃した軍事的紛争の過程で、数百万のパレスティナ人が家郷を追われたことは周知のとおりである。具体的な時期や経緯は詳らかでないが、サイードもまた若くしてパレスティナを離れた経験をもつ。その後やはり英国の支配下にあったカイロに赴き、その地のヴィクトリアン・カレッジに学んでパレスティナに居た時と同様に西洋風の教育を受けた。それからさらにアメリカ合衆国に渡ってプリンストン、ハーバードの両大学で学位を取得、そのまま学究生活に入った。

( 同上 202-203 )

 


上記のような経歴を持つサイード氏は、その著書『オリエンタリズム』のなかで、以下のことを指摘した。

 

 西洋と東洋(オリエント)とを分かつ境界線とは実は西洋によって生み出され、西洋優位の力関係を背景として強化された人為的産物であって、この境界線の彼方についての西洋の知識は実際には真の知識つまり真理ではなく表象にすぎない。そしてそうした境界線を維持し、そうした「知識」を通用させることに与って最も大きな役割を果たしたのがオリエンタリズムである。

( 同上 205 )

 

 

上記のオリエンタリズムの話では、日本はじゃあどうなるんだということになる。このことについては以下の論文が大変分かりやすかったです。

近代日本絵画のアジア表象(日本研究, 26巻, pp.185-220, 20021201)

国際日本文化研究センター学術リポジトリ 

(誰でもPDFでダウンロードして読めます)

HPの抄録をそのまま引用します。
 

 一八六七年の高橋由一による上海渡航以来、近代日本の画家たちは、アジアを描き続けてきた。本稿は、エドワード・W・サイードのオリエンタリズム論を利用して、近代日本絵画におけるアジア表象を分析したものである。
 『オリエンタリズム』でサイードは、一九世紀フランスにおけるオリエンタリズム絵画の流行については、ほとんど論じていない。しかしサイードの議論を引き継いだリンダ・ノックリンは、そこに西欧中心主義が見られると主張している。では、アジアの植民地を描いた近代日本絵画にも、サイード的意味でのオリエンタリズムは存在するのだろうか。
 画家藤島武二は、一九一三年に朝鮮半島を旅行したが、その紀行文のなかでフランスのオリエンタリズム絵画に言及している。藤島は、フランス絵画に植民地アルジェリアをテーマとした作品が多いと述べた上で、日本人画家も新植民地朝鮮を美術の題材として積極的に開拓すべきであると言う。また、アジア女性を描いた近代日本の肖像画には、フランス絵画のオダリスクの主題から影響を受けたと考えられる作品もある。さらに梅原龍三郎は、アジアの植民地にこそ鮮やかな色彩があり、日本にはそのようなものはないと語っている。これらは、日本絵画がオリエンタリズムの影響を受けたことを物語っている。
 しかし、アジアを描いた近代日本絵画を、サイードのオリエンタリズム論で説明しつくすことはできない。和田三造らによる多数の作品が、日本とアジアの共通性を強調している。児島虎次郎の絵にみられるように、非西洋である日本は、「自己オリエンタリズム」によって、「東洋人」としてのアイデンティティを形成してきた。従って、宗主国日本もアジアの植民地も同じ「東洋」と見なされる。大日本帝国は、植民地も日本も等しく「東洋」であるという言説によって、支配の正当性を確保しようとしてきた。アジアを描いた近代日本美術にも、同質性の強調という特徴を見出すことが可能である。

 

 

この論文は主に絵画から日本におけるオリエンタリズムを考えるものである。ここで指摘されているのは、西洋が中東をオリエンタリズムによって描くとき、それは「自分たちキリスト教徒」と対比してのイスラーム、「官能性・残虐性・古代性の強調」が特徴であるということである。自分たちとは違うもの、違っていて劣るもの、というような意識とも言えるかと思う。

 

では一方で明治維新以降の日本においてはどうかというと、そこで強調されるのは、アジアと自分たちの異質性ではなく「共通性」であるという。それはもちろん日本がヨーロッパから客体として見られるところの「アジア」にほかならないからであり、差異の強調、政治性をオリエンタリズムとするならば、日本の絵画にそれは当てはまらない。

では日本の絵画にはオリエンタリズム的な問題は無いのかというとそういうわけではない。日本の絵画では、ヨーロッパから「見られる」客体である、という事実をそのまま受け入れ、自分たちが見られるものであるということを踏まえながらさらに他者(自分たち以外のアジア、つまり日本にとってのオリエント)を客体化し「見る」側にもまわったという点が指摘される。それを筆者は「自己オリエンタリズム」と呼んでいる。

 

その例として出されるのが、黒田清輝の《舞妓》(1893年)及び《湖畔》(1897年)である。このふたつの作品では、舞子や着物姿(つまり民族衣装)の女性が描かれており、西欧から見た日本という異質さを意識して描かれている。しかしまた、これらの絵画には生々しい性的な要素はない。生々しい遊興の姿など、日本人にとって好ましくない要素は排除し、これによって西洋オリエンタリズムを取り込みつつ、日本人にとっても都合がよく好ましい絵画となっているのである。

※ちなみに民族衣装を着た女性、というモチーフがオリエンタリズムにおいてはよく描かれる。

そしてそのような自己オリエンタリズムがさらに、日本にとってのアジア、植民地へと注がれた。論文では、児島虎次郎内(1881-1929)の作品を取り上げている。彼は1911年、パリのサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナショナル・デ・ボザールに《和服を着たベルギーの少女》を出品し、初入選を果たしているが、これは白人女性のモデルに東京から取り寄せたという着物を着せた姿を描いた絵画である。

《和服を着たベルギーの少女》は、日本人画家が西洋のジャポニズムに寄り添って誕生した自己オリエンタリズムの作品と言えよう。キモノの白人女性を題材としたこの作品からは、例えばクロード・モネの《カミーユ、あるいは日本娘(ラ・ジャポネーズ)》(1876年)や、ジェイムズ・ホイッスラーの《陶磁の国の姫君》《金屏風》(共に1864年)が直ちに連想される。モネの作品では、色とりどりの団扇を背景に、キモノを身に纏い扇を手にした西洋人女性が描かれるが、ここで展開されている日本趣味は、そのまま児島の《和服を着たベルギーの少女》に流れ込んでゆく。鑑賞者たる西洋人の、日本対する異国趣味的まなざしを吸収し、西洋人の視線に合わせて自分の作品を提示してゆくという戦略は、ヨーロッパという舞台に日本人の出る幕を確保するためには、最も効果的で有効な手法にほかならない。

(同論文 213-214

フランスの東洋趣味(オリエンタリズム)を理解したうえでそれに沿った作品を自ら作成する、という戦略はもしかすると現在にまで通じるのかもしれないと私は思う。

そしてこの画家は、朝鮮の女性をモチーフにも絵を描いた。1920年に同サロンに出品された《 秋》という作品である。

 児島虎次郎は、フランスの東洋趣味を知り尽くした上で、彼らの好みに合うように、しかし日本にとっても受け入れられる表現の範囲内で、植民地朝鮮のチマチョゴリを描いた。これにより、画家はヨーロッパで自分の地歩を固めることができたのである。当時朝鮮半島は、一九一〇年の日韓併合から約十年が過ぎていた。日本の朝鮮統治が国際的に承認されてから十年後、日本人画家は終に、パリ画壇で朝鮮を表象する力と権利を獲得したというわけなのである。さらに児島虎次郎は、西洋の東洋趣味的まなざしを意識しつつ、植民地朝鮮の服装をした女性を描くことによって、日本を観られる側から観る側へと、立場を巧みにずらすことにも成功している。もっとも、この《秋》を以て直ちに日本の朝鮮半島支配を糾弾する材料とするのは、いささか早計であろう。《和服を着たベルギーの少女》《秋》の二作品が、共にフランス向けに構成された東洋趣味の絵画であるとするならぽ、西洋に対して、日本と朝鮮は同一の地平に立つことになる。欧米諸国を前にして、日本は自らが東洋人であることを、強く意識しないわけにはいかない。西洋列強に文明国として認知される必要があった近代日本は、欧化を進めると同時に、西洋からのまなざしに合わせた形で自らを提示する必要に迫られる。このような中で、日本も朝鮮も等しくヨーロッパ人のオリエンタリズムの視線にさらされているのであり、唯一違いがあるとすれば、日本文化を代表するのがほかならぬ日本人自身であったのに対し、朝鮮を表象したのが、宗主国日本の画家であったということ以外にはない。

(同 214-215

 

「同質性の協調」という日本のオリエンタリズムの特質は、では、西洋の差異を強調するというオリエンタリズムとどのような問題点の違いがあるのか、という点については、論文では「同化しながら差別する」という日本の帝国主義の戦略に通じるものがあると指摘している。これは「大東亜共栄圏」などとも同じ、日本とアジアの共通性を指摘することで、逆に日本の帝国主義、植民地支配を正当化することになるのである。これは、西洋のオリエンタリズムとは全く違った戦略であると筆者は指摘する。

 

 一方で、誰が表象するのかという点こそ、実は問題の本質であるかも知れない。現実の国際関係において、植民地時代の朝鮮に一切の外交権はなく、日本が、とりわけ帝都東京が、西洋列強諸国に対して朝鮮を代表する権利を掌握していた。美術においても、フランスのサロンに朝鮮人画家は存在せず、残念ながら半島の画家に、洋画という舶来の技法を駆使して本場欧州で活躍するだけの力量はなかった。パリのサロンに児島虎次郎が《秋》を出品するという行為は、欧米諸国において日本が朝鮮半島を外交的に代表している現実と、遥かに平行した現象と言えよう。《秋》という一枚の絵の周辺には、同時代の政治力学の反射音が鳴り響いているのである。

(同 215

 

 

実際に存在する差別や支配や暴力をまるで「なかったこと」のように、加害者の立場であるものが描く、ということが、まさに日本のオリエンタリズムなのかもしれないと、この論文を読んで思った。

少なくとも、知ってほしいと思う。「オリエンタリズム」という言葉が、現在、もしくは過去において、一体どのような意味を持っていたのか。

日本人が日本のイメージを使い、まさに「自己オリエンタリズム」をする、というのはそれはそれでその現象について考える必要があるかと思うが、今私が話したいのは、「他者」を表象する、ということである。自分とは「違う」ものを、いかにして表すのか。共通性を強調することも、差異を強調することも、どちらも対象の「他者」の姿を歪め、自分の視線を自身に都合のよいものに変えてしまう。

日本のなかにあるアジアへの蔑視は全く終わっていない。むしろ強まりつつあるのではないかとさえ思う昨今である。そのなかで、「オリエンタリズム」という、他者を見るそこに立ち現れるものが、一体どのような意味なのか、その言葉を使うということはどういうことなのか、今一度、よく振り返りたいと思う。もちろん自分もである。誰も踏まないということはできない。できるのは、「自分は今何を踏んでいるのか」と、どれほど頻繁に、広く、考えることができるかだけである。

 

 

 

 

 

 

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