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腐ハウスブログ

腐女子4人でシェアルームしてます。

腐ハウスの毎日とそれぞれの毎日

牧歌的空間と戦場を行き来して

どうもこんにちは、ゆうです。

くるくるさんのブログと化している腐ハウスブログに時折あらわれてはどうでもいい話をするおばけです。みんなこのブログ実は書いてる人が4人いるんだよ! 知ってた!?

2016年になり、ツイッターメインアカウントをすこし離れ、無駄なアカウントも削除し、松垢(いまおそ松さんにはまってるんですけどね)と、時折こうして日記を書くのみという生活をしていると、やっぱりちょっとメインアカウントはしんどい空間と化していたことに気づく。それは相手が、ということではなく、自分が作り上げていた空間が。自分の好みによりTLを形成するというのは自分の正義が内側で高まっていくことであり、その正義にそぐわないものは裁いて排除するしかなく、それがしんどかったのだよなあと思ったのでした。

多様性を求めることはヘイトを許す、許容する、ということではない。ヘイトは断固として拒否し、否定する。ただそれをするときあくまでも「個」でありたいと、わたしは考えているのだった。集団のなかでの、強制ではないにせよ存在する「空気」により何かを発するのではなく、自分の頭で選んでノーと言うこと。それができないのはすべて自分の未熟さによるものだろうけれども。

境界を保つこと。わたしはわたしであり、あなたはあなたである。別の人間として生きている、ということを自覚すること。当たり前のことなのに、意外とできてないのでは、と思う。わたしのなかに倫理があるとするならその部分だろうと思うし、結果、逃げたことも、それはそれでよかったと思っている。

松垢のほうでほのぼのと過ごしていると、本当に同じ世界か? とよく思う。よく言えば牧歌的なように見える。結局のところそれは、そこにいるひとびとの「わたしは」という声がとても小さく、みなほぼ、松というものを媒介に話しているからなので、それが「良い」かはわからないけれども。かつ、その牧歌的なものにくるまれた世界が現実と地続きなのは確かだから、地獄は実際あるんだよな、とも思う。

なんでこうやってどうでもいい日記かいたかって、一応みんな生きてるよって報告しとこうかなって。わたしたちは相変わらず平和に暮らしています。

あけましておめでとうございました。
本年もよろしくお願いいたします。