腐ハウスブログ

腐女子4人でシェアルームしてます。

腐ハウスの毎日とそれぞれの毎日

見るも言うも誰かへの言葉と力

気がつくと8月が終わろうとしておりブログの更新が停滞している!!

と気付いたもののSHINeeちゃんの活動はリパケを待つばかりであり、韓国歌謡界は女子も男子もぎゅうぎゅうにひしめき合ってのカムバ大決戦を繰り広げていてなんかもうすごい。どんだけいるんだグループ。
名前を知っているグループだけでも全然追いきれないです!!!!

そしてテミンさんのお誕生日があって私はこの三連休、テミンさんのお誕生日を祝い、職場の同僚にSHINeeを布教し、フォロワーさんにSHINeeを見せと3日連続でSHINeeの東京ドームブルーレイを見ていた。(正確に言うと職場の同僚の家にはブルーレイがなかったのでDVD版を購入した。「お金を大事にしろよ」と諭されました。)
有意義な三連休であった。尊い。


一方でというと世情は大変なことになっており、私も何度か国会前に足を運んでみましたが、どうなっちゃうんだジャパン。
「どうなっちゃうんだ」とか軽く言ってる場合ではないのだが、まさか自分が生きてる間に、しかも割りとこんなに若いうちにこのような事態にいきあうことになるとは思っていなかった。
高校生の時にNHKの「映像の20世紀」を見たのですが、思えば私達も後から振り返れば「2015年に○○が成立」という節目にたちあってるかもしれない世界に生きていて、後から見れば後々の悲劇や惨劇は既にその時点で決定されたかのように明らかに見えるけれども、今この瞬間となってみると、未来なんて全然わからないものだとつくづく思います。
とりあえず外国語をきちんと勉強してこなかったことをこれほど悔やんだことはないです。


何故このことが気になるのかと言えば、それは端的に言えば「自分が住んでいてまたこれから先も住むであろう土地」の話に他ならないからです。
特別に国土を愛したりしてる人間では全然ないですし特別に日本がすきとかもないですが、それでも気にかかるのは、私はまあこれから先何かものすごく特別なことが起こらない限りは、この国のなかで生きていく人間だからです。言葉の理解や仕事のあるなしの面において私は日本から出たら生きていくのが難しいのです。たとえどんなことが起こっても、よほどの決心でない限り(それこそ難民になるくらいの出来事が起こらない限り)私はここで生きて死ぬことになるので、私はここが、自分の信念にとって生きやすい場所であることを望みます。
まあそれは例えばネトウヨみたいなひとたちも原理は同じなわけで、今現在のこの国をもっと「自分(達)の信念にとって生きやすい国」にしたいからああいうことを言ったりしてるんだと思いますが。
今回の法案に賛成してるひとたちも。彼らはこの法案によって「この国がもっと自分達にとって『いい国』になる」と思うから賛成してるんでしょう。
私はこの法案は「私にとって『いい国』になるとは思えない、むしろ『悪い国』になる始まりだ」と思うから、反対なんですが。


そしてそれとあわせて、私はこの国で選挙権を持ってる人間ですから、それに見合った責任は一応あると思ってます。
私達は、まあ現実はどうだかとしても、王様を選べない世界に生きてるわけじゃない。
一応選挙で選ばれたひとが政権をとることになってる訳です。とにかくどんな状態であっても建前は。
だから私はそれに対して責任はあると思っている。「騙された」とか「酷いことをされてる」だけの被害者というわけでもない。

私は私の住んでいる場所に対して責任も持っているので、気にかけないというわけにはいかないんです。

多分私はのちのちに「加害に加担した」と見られたくない。
それが一番の私の動機になっていて、要するに自分本位なわけですが、私にとって「それはおかしいだろう」ということに抗わず、やがてそれが過ぎ去ったときに、「加担した」と自分で思いたくない。
かといって「騙されていたんだ、私は悪くない」とは絶対に言えないし言いたくないし許されないでしょう。

でもじゃあ何をしたら「加担した」わけではないというのか。自分の人生を使ってまでそれを言うことができるのか?そんなに強いことが?

 岩波新書の中国近現代史4『社会主義への挑戦』(久保亨、2011)を読んだとき、文化大革命が暴走していくなかで、北京外国語学院の学生だった王蓉芬というひとが、毛沢東の演説に「ヒトラーのようだ」と感じ、意を決して手紙を書いたという話があった。以下は引用(p184)。

尊敬する毛沢東主席へ

あなたが今何をしているのか、一人の共産党員として考えてみて下さい。目の前で展開しているすべての動きが何を意味するのか、党の名をもって考えてみて下さい。あなたが中国をどこに引っ張っていこうとしているのか、中国人民の名をもって考えてみて下さい。文化大革命は民衆運動ではありません。一人の人間が銃によって民衆を動かしているだけです。私は本日をもって中国共産主義青年団を退団することを謹んで声明します。

1966年、所属氏名を明記したこの書簡を出したあと彼女は逮捕され、10年近い勾留ののちに無期懲役判決を受けた。1979年、文革終結後に彼女は文革期の冤罪事件救済によって無罪釈放となった。その長い期間を彼女は、その書簡を送ったことによって、奪われたことになる。彼女のその、表明せざるを得ない信念によって。これは別に中国だからおこることでもおこることでもなんでもない。どこででも起こりうる。もしかしたら数年後の日本でも。

趣味でぽつぽつと韓国、台湾、中国(大陸)の近現代史を簡単な本で読んでいるのですが、民主化を求めるなかでどこも大変な弾圧や犠牲や社会の抑圧と戦ってきたこの戦後70年、多くの国で加害を行い、そして敗戦によるアメリカの占領からその70年をはじめた一方の日本は、これから一体どうなるんでしょうか。
もし私だったら、私はこのような手紙を果たして書けるでしょうか。
書いたら「やばくなる」ようなところに私は、住みたくないのですが。

 

さてところでもうひとつ全然違う方向でちょっとSHINeeのジョンヒョン君が話題になってましたね。
よりによってその話題に参入しちゃうのかという感があったのですが、発端はどうもSMTMというラッパーのバトル番組でのラップの歌詞が問題視された話だったらしいんですが。
http://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=2024519

これ自体はニュースにもなってましたけど、そこから何かジョンヒョンの発言に飛び火したらしくさらにジョンヒョン本人がツイッターで発言したことで、ファンも大きく知るところとなったようです。

なにしろ私韓国語が分からないので、ことの経緯とか彼の発言の実際のニュアンスとかは翻訳等を通してしか知ることができず、物事の詳細が実際に自分で掴めないのになんか言うのはどうしても、自分の誤解やリサーチ不足が否めないのですが、普段色々言っておきながらこんなときだけ何も言わないのもそれもどうかと…?という気持ちでぐだぐだと情報を追っていました。

多分、自分が全然興味ないアイドルとかがこの発言したら、私コテンコテンに非難しまくってたと思うんですよね。
何にもわかってないわとか言って。
じゃなくて今回はよりによってSHINeeのジョンヒョン君なわけです。正直、「マジでよりによってこの話題に参入しちゃう???」と絶望したんですが。でも彼は普段から社会のことに対して気を遣って色々と発言してますから、ここだって黙っている訳にはいかなかったのでしょう。

批判をした方とのDMのやりとりが公開されていたので、翻訳してくださったものも読みつつ見てはみました。
ここから先、私の考えをまとめてはみますが、如何せん私は韓国語が分かりませんので、それによって何か誤解や誤読をしている部分があれば、そこは是非教えていただきたいと思います。


まずジョンヒョン君の「女性は芸術家にインスピレーションを与えるミューズ、祝福された存在だ」という旨の発言。
それに対して「それは女性を客体としか見ない、女性の主体性を奪うような見方だ」との批判があります。

これはつまり女性はインスピレーションを与えこそすれ、「つくる」側にはまわらないような印象を与えます。
女性は常にインスピレーションの源泉として「見られる」だけ、客体としてのみ存在し、女性が「見る」主体としても存在していることを無視したような言い回しに聞こえるわけです。
たとえどんなに素晴らしい芸術の源になったとしても、じゃあ女性は自分で芸術を主体的に「つくる」側にはまわれないのか。「ミューズ」としてしか存在できないのか。芸術家にインスピレーションを与えるという「補佐的な」存在にしかなりえないのか。


で、その批判に対して、ジョンヒョン君は「全ての存在はインスピレーションを与えるものになりうる、男も女も、美醜も関係なく」という回答を出していたかと思います。
一見これで全てが解決するかと思いますが問題は深まるばかりです。

現状の社会においては女性ばかりが「見られる」状態になっており、結果女性は男性に比べて外見や行動について、逸脱をしないよう自ら常に「気をつける」ようにしていなくてはなりません。
何故女性だけが化粧をしなくてはならないのか。それは女性が男性に比べて「外見の美しさ」を「見られて」いるからです。
身だしなみや言葉や態度の優しさを女性が常に気をつけなければならないのは、女性が常にそのようであるかどうか「見られて」いるからです。
最近は男性も随分とその外見や行動が「見られる」ようになりましたが、やはりまだまだ女性の「見られる」ことの圧力は男性の比ではないように思います。

「かわいい」女子はそれだけでデモのなかでさえ「こんなにカワイイ子がいるんだ」と目をつけられることになるのに、イケメンがいても「こんなイケメンがいるんだ」ってわざわざ取り上げられたりはしないし、なんならそんなイケメンはなかなか存在しない、というのがこの「見られる」ことの差を表しています。

例えば受付はどうせだったら若い女子のほうがいい、という発言。
それは誰にとって「いい」のか。「男がやってもむさくるしいだけ」と思うのは「誰」なのか。
男女同数のイベントの受付だったら、半分の女性はもしかして「どうせだったら若い男が受付のほうが嬉しい」と思ってるのかもしれないのにそれは全然言われない。
「どうせだったら若い女子がいい」というのは、多くの男性がそう思うから、という前提のもとの発言である。
「見る」のは男、「見られる」のは女。
受付を「見る」のがそういう男性ばかりであるといつの間にか前提されているのでです。

「見る」「見られる」ことに対する男女のこのような不均衡状態において、男女も美醜も関係なく全員が「見られる存在だ」と言えば問題が解決するかと言うと逆に、現状の不均衡を正す機会を奪いかねません。
男も女も同じ人間です、とか何の解決にもならない。
現にこの不均衡な状態は存在していて、それによって害をこうむる場合が起こってるのに、ただ「同じ人間です」とか言ってたら逆に目の前の不均衡な状況を分かっていない、ということになります。
「同じ」だから、現在の状況を改善することは「必要ないでしょ?」ということに繋がってしまいます。
それではダメなんです。
「男と女は同じ人間ですが、現状女のほうが不利な状況に置かれやすい不均衡な状態にあるので、その不均衡はなんとしても改善されなければならない」んです。


そして、それは「どのような状態で不均衡を正すのか」という議論にも当然繋がります。
ただ単に男女が一緒ならいいってわけありません。
女は殴ってはいけない、それは男女差別だ、男なら殴っていいのか、よし男女平等だから男も女も殴ろう、そういう結論にたどり着いたらダメなわけです。
男も、女も、性別に分けられることなく、等しく「殴られない」ことを目指さないと。


そもそも、「見る」「まなざす」ということはそれだけでひとを傷つけうる行為です。
勝手にじろじろ見られたり、勝手にインスピレーションの源にされるのは嫌だし困るわけです。
だって誰も、男も女も美しくても醜くても、誰かに「見られる」「インスピレーションを与える」わけに生きてるわけじゃないですから。
しかも「インスピレーションを与えうる素晴らしい存在」って言われたら尚更。

別に誰かに「インスピレーションを与える」から素晴らしいわけじゃないんですよ。
美しかろうが醜かろうが、別にただ生きてるだけで、存在しているだけであって、それだけのことです。
誰かにインスピレーションを与えうる、そういう誰かにとって「役に立つ」存在だから素晴らしいんじゃなくて、ただ生きてるだけ、それだけで素晴らしかったりそうじゃなかったりするんですがとにかく生きてるだけです。
役に立つかどうかなんかで判断しないでほしいし、勝手にインスピレーションとか得ないでほしい。

例えば「アフリカの貧しい子ども達」、みたいな題材で写真を撮る、ということだったらすごくわかりやすいと思うんですが、まあ経済的にそこまで貧窮してない人間が、「アフリカの貧しい子ども達は目がキラキラしていて、貧しい暮らしながらも現代の我々が失ってしまったものを持っています」とか言って感動しながら写真撮ったりするのはそれはダメだろ、てのは分かりやすいですよね。
「アフリカの貧しい子ども達」はそんな誰かの自己満足的感動を与えるために存在してる訳じゃないし、そんなの勝手に感じたり、見たり、することは本当に暴力です。眼差しの暴力。

たとえ支援等をするにしても、一方的な「かわいそう」という感情や同情に基づくならそれはやはり根本的に、こちらは常に「見る」側、あちらは常に「見られる側」という視線の暴力は変わりません。

「見る」とき、相手もまた自分を「見て」いるのだという最も簡単なことを意識するのが難しい。
自分だけが「見ている」と思い、相手の「見る」という主体性を奪い、相手に「客体」であることを押し付け、自分だけが「見る」主体なのだと思ってしまう。


それから、経済的に貧窮していないものと貧窮しているもの、都会と田舎、男と女、「日本人」と在日コリアン、マジョリティとマイノリティ。
本人の意識とは別に、それぞれには圧倒的に社会的な格差があって、それは本人の意思で飛び越えうるものではないと思います。
いくら上にいるほうが「おれは気にしないよ、一緒だよ」つってもそれは全然意味がなくて、むしろその社会的格差を認識できていないことになります。
上から「見る」ことはただそれだけで「見下す」ことになります。

だから、自分がどういう位置にいて、自分の動作がどのようなものを相手にもたらすのか、周到に、考えないといけなくて、それは本当に本当に難しいのですが。
本当に本当に難しくて、自分がマイノリティの分野だったら毎日体感させられるからすぐに気付くことも、自分がマジョリティの分野だったら全然気付けなかったりします。それは私もです。

私は自分が田舎者なので、都会のひとの田舎のジャスコをdisる発言には本当に腹が立つし東京の人の安易な「都会も田舎も変わらないよ」って発言には「何言ってんだボケ」とか思ってそのあたりすごく気になります。
でも私は自分の性別自認に対してそこまで違和感はないので、何気ないアンケートで「男・女」ってどっちかに○をつけなければならないことに対してものすごく憤ったりしたことがそこまでありません。性別欄はなくなればいいと思いますが、やっぱり自分のかかわり度合いによってテンションが違うことは否めません。
さらに言うとおそらく、自分がもっともっと意識したこともないようなマジョリティである分野については、差別的状況がある、という現実にすら気付けていない可能性があります。多分あるでしょう。でも気付けてすらいないのです。私自身が。知らずに「見る」と思って「見下して」いることが多分、たくさんあります。
なるだけ「気づいていたい」と注意深くあろうとする、ということしかできないんですが結局。


さて、「見る」「見られる」の不均衡状態と暴力性については上記のが私の考えだとして、ひとつ今回の件で思ったのは、ジョンヒョンは、暴力的に一方的に「見られる」まさに渦中の人でもある、ということです。

一般的な男性だったら、自分は「見られている」ということを意識することもなく、女性ばかりを「見て」いることに対して、その自分が客体にならないことに胡坐をかいた鈍感ぶりを指摘することができるかと思うんですが、ジョンヒョンは全然そうじゃない。

彼は、ものすごい数のおもに女性のファンから一方的に見られ、消費される「アイドル」なんですよね。

それこそ、まあ普通に彼の写真や映像を見て楽しむファンから、彼らの私的空間まで侵入して直接的な危害を加えてくるサセンペンまで、ものすごい数の視線の暴力に晒されているわけで、それはものすごい状況。
しかも毎日「今日はかわいい」とか「今日はちょっと機嫌が悪そう」とか言われたりたまたまヘンテコな表情撮られたり、もうありとあらゆる視線と言葉の暴力のオンパレードって感じで、そんじょそこらの人間の「見られる」なんてプレッシャーとは比べ物にもならんほどです。街だっておちおち歩けない。
そんで私もまたファンのひとりとして、降り注ぐ弓矢のような視線のひとつとなって彼らを傷つけているわけです。


彼らほど、「見られる」ということの暴力性を知っている人たちはいないとも思います。
どこに行っても「見られる」し、休まるときもないし、外見は延々とチェックされるし、痩せても太ってもなんか言われるし。


それでも、前にジョンヒョン君のラジオにテミンさんが出演したとき、じろじろ見られたりするのは嫌だけど、かといって全く気付かれないのも寂しい、というようなことを言っていたかと思いますが多分その通りでもあるんですよね。

じろじろ見られて休まらなくてさんざんネットでなんか言われたりして疲れ果てて、でも「芸能人」である以上、「あのひと誰?全然知らない」なんて言われてもそれはそれで傷つきますよね。誰にも気付かれなかったら、それだけの知名度がない、ということだし。

「見られたくない」けど「全然見られないのも困る」というジレンマが芸能人には顕著ですけど、一般人にとってもある程度は通じる話で、それが多分この話の一番こんがらがっている部分なんじゃないかと思います。

勝手に見ないでほしいし勝手にインスピレーションとか得ないでほしいんですが、例えば自分が素敵だと思う服を着てて、「それいいね」って言われたら嬉しい、みたいな。
勝手に一方的に見られるのは絶対に嫌だけど、「見て欲しい」ところがあったらそこは見て欲しい。

もちろん何もかも絶対に見て欲しくない、というひともいるでしょうし、日によっても違うかもです。
ただとにかく、「勝手に見るな、でもこっちの意志によって見て欲しいという部分はある」というダブルスタンダードに見えなくもない言説がややこしさを増します。

ミューズになること自体を否定するのではないし、ミューズとして見ることを否定もしないのですが、全ては「本人の意思」というものの上に立っていて、「勝手に見るな、しかし見て欲しいときは見て」という、実は単純な話でもあります。
テレビに出ているときは見て欲しい、有名になりたい、でもプライベートではじろじろ見ないで欲しい、多分それと同じなんじゃないでしょうか。

  • そのひとが見て欲しいというときは見る、でも見て欲しくないときには見ない。
  • 見て欲しい、と言ってるそのひとも、実はこちらを見ている、お互いに見合っている存在だということを忘れない。
  • 見て欲しいと言われて見ているときでも、もしかしたら何がしかの暴力性を含んでいるかもしれない、ということを忘れない。自分が「見る」ことがどのような状態であれ相手を傷つけうることを忘れない。

多分こんなことくらいしか意識できないと思って、こんなんで解決策かと言われたたら申し訳ないですとしか言えないんですが。
ほかに何かいい案ないかな。

とにかく、「見られている」ほうにも主体と意志があり、勝手に見たらダメだし、相手の意思も確認したとしても、それでもなお気づけないどこかで「見る」ことによる暴力はなくすことができない。


ということかな、というのが私の考えで。
何しろ自分もアイドルを「見て」消費している真っ最中なので、全部自分に刺さってくるんですが、できるとしたらこんなもんです、正直なところ。考えたからってそれで何かが相殺できるわけじゃないんですけど。


「見られる側の主体性」ってのにもうちょっと気付いてほしいし現実の男女の不均衡にも気付いて欲しいなって思うんですが、彼は日々膨大な女性ファンからの視線を受けまくっているわけで、彼の中では、男女の見る、見られるは十分平等と考えうる環境、かもしれないし、そこのところまでは分かりません。
「見られる」ことに私が考えるより肯定的なのかもしれないし。なんせ、日々「見られる」ことを仕事にしている彼ですし。

とりあえず、もうちょっと「見られている」側の主体性というものについて、認識すべきじゃないかなというのが、彼の発言に対する私の批判、批判と言うべき点だと考えます。
一方的に「見る」ということが、相手の主体性を奪う行為そのものになりうる、ということ。
それは常に一方的に見られているジョンヒョン君が、きっと誰より分かっていると思いますが、それをもうちょっと、全体に敷衍して考えてみたらわかるんじゃないですかって。
私はやっぱり、そう言うべきだと思います。

 

ジョンヒョン君は別に女性を卑下なんてしてないことは私もそう思ってます。彼は女の子大好きなんだろうし、お母さんやお姉さんをもう大好きで仕方ないってことは彼のマザコンシスコンエピソードの数々から胸焼けするくらいに感じますよ。

ただ、「褒めてりゃいい」ってわけでもないんですよ。
無条件に賞賛する、ということは、相手の主体性を奪うから。

ジョンヒョンが間違うわけない、彼の発言は全て正しい、ってファンなら思いたいですが、それこそジョンヒョンの主体性を奪っている行為、になりうるじゃないですか。
彼には彼の考えがあり、それはファンの理想どおりでは決してないし、間違いもするし、つまり彼を理想化しすぎるのは結局彼を傷つけるのと同じこと。本当の、主体的な彼の姿を奪うということ。
同じことで、女性は素晴らしいって賞賛してるだけなら、結局理想化して現実の主体的な女性の姿を奪ってしまう。


分かりやすく卑下してないのに、どうして批判されるのか。
理想化はつまり卑下と表裏一体で、「この性別ならこう、このひとならこう」という周囲の決め付けという点では同じになってしまうからです。
女だから素晴らしいってわけでもない、それは性別で分けられることじゃない、それはただただ「そもひと」ということ。
ジョンヒョンはこういうひと、っていう決めつけをしないのと、同じことです。
無条件の賞賛は、無条件の卑下と方向性が違うだけでやっていることは同じだから。


でも難しい。
ただそのひと、というものを見るのは、本当に難しいですよね。
いろんな属性で判断しがち。
結局、ネトウヨみたいなのだって同じで、韓国だからいいとか悪いとか反日だとかそんなわけない。
ある一面ではこうだけど、ある一面ではこう、というそれぞれの多面体をどれだけ多く、ひとつひとつ見ることができるかどうか。

なるだけそういうのができるようでありたいですよね。
たくさんのことを、ひとつひとつ見られるように。
難しいですけど。

この韓国の記事が結構よくまとまってました。

 종현은 ‘누나스플레인’ 당하지 않았다 | Idology.kr


【追記】 

 今日この件に関して日本でもちゃんとした社会学者の方の記事が出ました。公開された対話の日本語訳もついてますので是非。それにしてもフェミクラスタでの評判をジョンヒョン君は手に入れたぞ!ますますがんばれ!!!

「見きわめる目と傾ける耳」を持ったアイドル、SHINeeジョンヒョンとフェミニストとの対話(韓東賢) - 個人 - Yahoo!ニュース

あと、私の主張について、映画「新しき世界(原題: 신세계)」の日韓合同薄い本イベントが開催された折に出会った、韓国の日本文化、サブカルチャー文化の研究者のキムヒョジン先生が、韓国語訳をしてくださいました。ありがとうございます。それもこちらにあわせて載せさせていただきます。