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腐ハウスブログ

腐女子4人でシェアルームしてます。

腐ハウスの毎日とそれぞれの毎日

恋とかいうふわふわしたものでごまかされない闇と罪

ゆう

昨日、黒バスタイアップキャンペーンを開催している大江戸温泉物語*1へ行ってきた。

大江戸温泉自体はじめてだったのだが、施設全体が黒バスで彩られており、それが既にオタク心をくすぐるうえに温泉、食事、お酒、リラクゼーションにミニゲームなど幅広く楽しめるちょっとした夢のような場所だった。それ自体はめいっぱい楽しんだのだが、友人とオタク話をしていたところ、自分の好きなカップリングと好きなキャラクターの話になり、その友人の言った「カップリングじゃなくキャラ単品で好きになると自分の闇と向き合いますよね」という言葉に、はっとしたのだった。

先日書いたが、わたしはいまのところ「狂うほど好きなものはない」。熱狂は過ぎ去ってしまったからいまのところ何かをそんな風に好きになることはないだろう、というところでの安寧はあって、実際その安寧のなかぬるぬると過ごしている。はずだった。詳細はこちらの記事をお読みください。


で、だ。その友人の言う「キャラクター単品で好きになると浮かび上がる自分の闇」である。

「ハイキュー!!」という漫画をご存じだろうか。ジャンプ連載の漫画だしアニメもやっていたので知らない方のほうが少ないかもしれないが題名のままに「排球」、高校バレーボールを題材とした漫画である。内容はWikipedia*2に詳しい。

わたしはその中に出てくる「西谷夕」というキャラクターが好きである。

彼は守備に特化したリベロというポジションの選手であり、基本騒がしい性格である。が、普段の喧騒からは想像できないほど静かなプレイを見せる。センスもあるだろうがどんなボールでも的確に拾い、そのプレイを裏付ける努力をし、リベロというポジションに対する誇りを持ち、そして守護神としてチームを支えていく姿勢を貫く、その言動、どれをとってもしびれるほどかっこいい。外見も非常にキュートなのだが、そこはひとまず置いておき、たくなるところにわたしの闇がある。

いままでの傾向でいえば、最初キャラクター単品で好きになっても作中に好きになったキャラクターの相手を見つけ、カップリングで楽しむのが常であった。カップリングで好きになるということ、それは関係性を楽しむということだからである。関係性を楽しむ、ということはそれがいろんなことの隠れ蓑になることでもある。わたしの場合。あくまでもわたしの話である、というところでどうかご容赦いただきたい。

で、西谷(以下ノヤさん)のことである。

ノヤさんに関するカップリングというと相手の多くは東峰旭(以下旭さん)だろうと勝手に思っている。

旭さんは宮城県立烏野高校排球部のエースであり、ポジションはウイングスパイカー。ごつい見た目と力で押すプレイスタイルとは裏腹に「傷つきやすいガラスのハートの持ち主」と言われるほど、心優しい気弱な御仁である。ただ作中でノヤさんから「おれのエース」と呼ばれるほどの人物であることからノヤさんからの矢印は確かに旭さんに向いているように思われる。

ノヤさんはリベロなので攻撃には参加できない。自分の拾ったボールはセッターに渡り、最終的に旭さんを筆頭としたスパイカーたちにより相手のコートへとたたきつけられる。つまりスパイカーがいなければ、スパイカーの攻撃がなければ、ノヤさんがいくらひとりでボールを拾ってもだめ、ということでもあり、自分の拾ったボールを相手のコートへとたたきつける旭さんはノヤさんにとっても紛うことなきエースであり光でもあるというわけである。

だけれども、そこまで言いながら、わたしは東西、あるいは西東、にははまっていないし、はまりたくないし、旭さんのことは好きではない。こんなにすばらしいカップリングが目の前に用意されているのにもかかわらず、かつノヤさんが旭さんがいいって言ってるようにも感じているにもかかわらず、である。旭さんが悪いわけではなく、単純にノヤさんを好きすぎて、ノヤさんとくっつく可能性のひとのことは好きになれないのだ。ふわふわとした言葉で言えば「恋」である。そして自分がいま、夢、という可能性に足を踏み入れようとしているのでは? というのが最近のわたしの疑いのひとつでもある。(夢につきましてはドリーム小説というWikipediaをご覧ください*3

腐と夢。共存させている腐女子もいまは多いのかもしれないし、わたし自身、一部の夢小説を読むのは嫌いではない。だがそれはあくまでも「壁としてのわたし」を保った状態でのことだし、読むのもそういう内容のものである。キャラクターとの関係に「わたし」は登場しないし、そういう自分が普通だったし、そういう自分でいたいので、友人の言葉をかりるなら「アイデンティティがゆらいで」、ただただ戸惑っている。

次に、そもそも、彼は高校生である。そしてわたしは彼(高校生)(のキャラクター)が好きである。この字面、見るからにやばい。

腐ハウスでも話題にあがったのだが「逆転させて考えてみればよくわかるけど、30の男が女子高生を好きって言ったらやばいって思うでしょ」。それである。

さらにその「好き」は現実にも少しはみ出てしまっている。というのもわたしは高校野球の漫画にはまれば甲子園へ、バスケットボールの漫画にはまれば、ウィンターカップを見に行く、からである。「漫画を好きだから」。その好きをつきつめたところ、煮詰めてどろどろになったところに、わたしの闇がある。

わたしはプロ野球を見に行くこともなく、プロバスケットボールのリーグを見に行くこともない。別にやましいなにか、はない、と思う。けど、プロは見ないのに、高校生たちのそれは嬉々として見に行くってやばいでしょう。高校生たちに付与された物語を消費しにいっているのだろうとも思うのだが、けれども、もうなんか、やばい。やばいって思いだしたら全部がやばい気がして、三十路の女が高校生(のキャラクター)を好き、とか犯罪の匂いしかしない。

そうして考えていくと、いままで好きになったキャラクターみんな未成年なのでは? 忍たまでは藤内が好きだったのだが、彼に至っては気づいていなかったが12歳とか13歳である。やばい。もうどう考えたってやばい。アウト。まさか、とは思うが、ショタ、コン。自覚なきショタコン。やばい。これが最近の疑いのふたつめ、っつーかもう疑いじゃない、わたしの罪である。

自覚があればいいのか、というとわからない、わからないけれど、自覚がないよりは良い気がする。そこには自分で自分を見張るという力が働くから。これはいけないことなのだ、という自覚がなければどこまでもどこまでも欲望はふくれあがる。(そもそも気づく発端は韓国の映画「シークレット・ミッション」なのだが今日は割愛する。)

「見ている分には害はない」。「二次元だから」。
昨日別々の友人からもらった福音だが、もう自分やばい、って思っちゃって、わたしは一体どうしたらいいかわからない。

ノヤさんのことは好きである。いままでの自分を捨ててもいい、と思うほどには好きである。昨日大江戸温泉のあとはじめてj-worldにも行ったのだが、グッズに手がのびそうになっては我慢する、ということをくりかえした。ケーキを食べてポストカードをもらう際にもノヤさんの写っているものを探して選び、そのあとノヤさんを眺めて楽しんでしまった。これは罪でも闇でもあり、やばいってわかるんだけど、どうしようもなく、いまの解決策としては、「旭さんを好きになる」というのが提案されたのだけど、どうだろう、できるだろうか。

関係性を好きになるということ。それは誰かを好きという土俵に自分を持ち込まないことでもある。自分がそこにのぼらない、ということは、平和、であり、安寧、でもあり、同時に関係性を見ているということは限りなくだれのことも傷つけないということでもある気がする。もちろん、だれも傷つけないなんてことはありえないし、そこにだって罪はあるわけだけれど、少なくとも、なんだろうか、ワンクッションある消費というか。そういう建前を持てるというか。欺瞞だろうか。

とにかく昨日、わたしは自分のなかにある罪を自覚し、いまどうしていいかわからないながらも、じゃあ旭さんをとりあえず好きになってみようとハイキューせっせこ読んでいる最中。三十過ぎて自分の罪に気づくなんて。ショックである。

願わくば、ノヤさんのことを話し出すとやばくなるわたしの頭をどうにかして通常運行に戻せますように。「二次元だから」。それをおまじないにして乗り切りたい。