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腐ハウスブログ

腐女子4人でシェアルームしてます。

腐ハウスの毎日とそれぞれの毎日

アクロの丘で目覚め、別れて

わたしはとあるビジュアル系バンドに狂った10代を過ごし、そのあとはジャニーズにはまり、いまは韓流にはまったりしているわけだけれど、ビジュアル系にはまっていたとき、それからジャニーズにはまっていたときと韓流にはまっているいま、何が違うのだろう。

正直に答えるとジャニーズにせよ、韓流アイドルにせよ、わたしはとくに気が狂うほどにははまっていないし冷静である。友人に言わせればソウルのコンサートに行くだけで十分にはまっている、ということであるが、お金の使いかたも追いかけ方も愛情のかけかたもやはり冷静だと思うのである。

というのもビジュアル系バンドにはまっていたとき、わたしはライブがあれば全通の勢いだった。チケットが手に入らないときも会場まで行き音漏れを聞いて過ごすくらいだった。ライブに行ければむせび泣き、ボーカルに煽られるまま煽られ、声がかれるまで叫び、ヘドバンをし、友人と恋人のように手をつないでいなくては自分が保てなくなるような、そういうはまりかたをしていた。

わたしは短歌をやっていて、去年性別越境アンソロジー「兼ネル」に、ビジュアル系にはまっていたころをテーマに詠んだ10首を寄せた。そのなかにはまっていたバンドを詠んだものがある。拙作ながら引く。

彼がかみさま(いいえ、人間)丘の上よりこぼれだすなみだ、絶唱

これがわたしの、彼らに対する認識である。彼らはわたしにとっての「かみさま」であった。

彼らとわたしがどうして離れてしまったか、いま思うと、単純にその「かみさま」つまり、彼らのもっていた「ものがたり」をわたしが自身の変化とともに必要としなくなったからではないか、と思っている。

わたしのはまっていたバンドは世界を引き裂きたいんじゃないか、というような痛みでもって存在しており、とくに作詞を担当していたボーカルの、歌のことばよりもパフォーマンスの中に見るひりひりとした痛み、そこにわたしはひきつけられて、愛していたのだと思う。それがおそらくわたしの前に提示されていた「ものがたり」だったのではないか。演奏がうまかったか、歌がうまかったか、というとわからない。ギターソロ、ベースソロ、は当時も「へたw」みたいな話をしたこともあったけれども、ギターやベースや歌のうまさなどわからなくなってしまう、そういうはまり方だったように思う。今聴いてもおそらくうまいのかへたなのかわからないんじゃないか。

ジャニーズも韓流も毎日聞くくらいには好きである。でもコンサートに行けなくてもさして困らない。行けるとき、行ける機会があれば行くけれど、自分から手をのばしてどうしても、という切実さはない。韓流もジャニーズも家でDVDを見て「わあ、かわいいな、かっこいいな」くらいでとどめておける。アイドルとはよくいったもので、わたしは彼らの表層を愛でているのだと思う。曲の良し悪しもわからず、でも聞いていて気持ちの良いものは聞く、くらいの。だからといってかつて必要としたビジュアル系バンドがいま必要かというとまったくそうじゃないので不思議である。それはたまたまわたしがいま必要としている「ものがたり」を彼ら(ジャニーズにせよ韓流にせよバンドにせよ)が持っていない、というだけの話のような気もする。

それにしてもどうしてわたしはこんなにも「ものがたり」を求めるのだろう。短歌にしたってそうだ。短歌のことばのなかに物語を探しては読み解いてたのしむあそびをいまもしている。

Fuckin' Blue Film(藤森直子著)のなかに、「書かれていることが重要なのであって、本という物体自体にはさして興味がないから、高い本でも読みたいところだけ破ってお風呂で読む」というような部分があって最終的に著者は「わたしは本に、ものがたりになりたいのだと思う」(ちょっと本が手元にないので表現はこうではなかった)というのだけれど、自らをものがたりにしていく、ものがたりに取り込んでいく生き方にわたしは惹かれつつ、線を引いている。ものがたりになる、ということは、死んでしまうことであるような気がするからだ。

過去になっていくもの、それをものがたりと呼ぶ。

EXOのメンバーが抜けてしまった、という事実からうまれるものがたり。それを悲しみとして摂取しながらも、さして悲しくないのだ。だってクリスもルハンも生きてるし、みたいな、そういうところで、さみし~って言いながらさみしくない。シゥちゃんかわいい~っていいながら、気は狂わない。それは黒バス読んでてもそうだし、アニメを見てても小説を読んでいてもそうだ。

わたしはおそらく、いまのところ気が狂わない。気が狂うように何かを好きになるということがない。それはとてもさみしい。本当にさみしい。さみしいな、って思いながら韓流を見ている。韓流を愛でて、かわいいな~って思いながら気が狂わない、そういう、いま、がなんだかとてもさみしいので、何かを好きになることは、さみしくなくなることなんじゃないか、と思ったりしている。本当にそうなのかはわからないけれど、すくなくともわたしは。