腐ハウスブログ

腐女子4人でシェアルームしてます。

腐ハウスの毎日とそれぞれの毎日

箱根駅伝の先にオリンピックを見ることは果たして「可」か

前回のエントリでもちゃもちゃっと書いたんですが、「何故私は韓流アイドルにハマったのか」というのをまた考えていていた。
「それぞれのひとが好む基準は違うから」というのは当然のことなんだけども、個人というのは必ずその周囲の環境に左右されるものなのでやっぱり何かしらその環境における「大勢」というのはあるわけである。


ジャニーズやAKBに代表されるような日本のアイドルを「未熟さを愛でる」と言ったんですけども。
未熟というのは、彼らの歌やダンスという芸が、「すっげーうまい!」というものじゃない、ということを指す。

※「何をもってしてダンスや歌を『うまい』とするか」ということについては、喧々諤々の議論があるであろう。おのおのの主観的な基準のなかにうまいへた等はあり世の中にはスマップ中居君の歌を「下手だと思わない」世界も存在するとは思うわけだが、ここでは、「中居君の歌は下手である」という世界線で展開することとする。「ビヨンセは歌がうまい」とも言います。

まず私が韓流アイドルを見てて気付いたこととして、「シバきあげられれば一定基準までは歌もダンスもうまくなる」ということがあります。
もちろんセンスや才能(それには、より「努力できる才能」というのも含まれると思うけど)というのはあって、努力に努力を重ねた上でもなおそこに差をつけるものがセンスや才能だと思うんですが、そこまで行かない状態、「ものすごく頑張れば辿り着けるところ」というのは多分ある。歌やダンスに限らず何だってそうである。

韓流アイドル達というのはその基準まではめちゃめちゃにシバきあげられているので、歌もダンスも皆そこそこレベルまで全員うまい。そのうえでさらにダンスや歌において上をいく人々がいるわけですが。

で、別に「韓国人だから歌やダンスが上手い」という訳ではないと思うわけです。
韓国という社会が課す競争社会やルッキズムのなかで、「めちゃくちゃシバきあげられそれに耐えたから」歌やダンスがうまいんだと思うんですよ。

ということは、「めちゃくちゃシバきあげられてそれに耐えれば」日本のアイドル達でも多分同じくらいまで歌もダンスもうまくなれるはず。
「アイドルたるもの歌もダンスもうまくなくてはならぬ」という共通了解がある世界ならばシバきあげが入るはずだが、しかしそうではないのである。
「そこはシバきあげてうまくしなくてもいい」という共通了解があるということである。

私が気になるのは、「何故そうしないのか」というところである。
彼ら自体が「未熟」だというよりも、何故なろうと思えばなれる多くの可能性のなかから、今の状況を「これが最良である」と選び取ることになるのか。選び取らせるものは何なのか。
そして、そこが重要視されないのなら、日本のアイドルにおいて「これは必ず必要である」とされるものは何なのか。


音程がズレたりしながら歌うアイドルを愛でるにあたり必要な条件というのはおそらく以下であろうと思われる。

・そんな状態でも歌うという「頑張り」「健気さ」を愛している。
・ここからの成長、どれだけ歌がうまくなっていくかを見たい。
・アイドル本人の背景や性格や日々の生活、発言、グループとしての文脈等をよく知って、歌以外の優れた部分を愛すことに至ったため、歌のクオリティは問題にしない。
・寧ろ「歌がうまくない」ということに「親しみが持てる」等の価値を見出している。

私がSHINeeのテミンさんを愛する理由として、外面の美しさ、歌声、そして何よりもダンスの実力、というものがある。
逆に言うとそれ以外は別にそれほど気にしていない。例えばコンサート中にあんまりファンサをくれないとかだ。(テミンさんのファンサ力は超微妙で、多分ファンサが一番の目当てのひとだったら不満に思うであろう)

つまりそういうことで、私は「舞台に立って歌やダンスをするひと」である場合にはまず「歌やダンス」を重視する訳だが、そうではないひともたくさんいるということである。
超ありふれた結論に辿り着いた。
じゃあなんで日本では「そうでない」方が多数派なのかということである。

 

「舞台に立って歌やダンスをするひと」であるにも関わらず、歌やダンスがただそれだけでは目を引くようなものでないのだとしたら、我々は別にいいところを見つける必要がある。

背景の物語をよく読み込んでから、そのうえでその「物語」の一部としての「歌やダンス」を見る。
例えばスマップという文脈において、グループ結成までにどのような物語があり、その後どのような歴史を辿り、各メンバーの性格やこれまでの経歴、仕事、得意なこと、苦手なこと、発言や生活、コンサートでのファンサービス、トーク、ジャニーズのなかでの関係性、芸能界における位置。
それらを体得すると、おそらく舞台上の彼らのパフォーマンスを見る目は全く変わるのであろうということが予想される。

しかしそういう物語は韓流アイドルだって持っている。
それなりに開陳された彼らのバックステージは、日本語にもたくさん訳されるので韓国語の分からない私でもそれなりに体得できる。
物語を知ったうえで見れば、「実はこのとき彼はこのようなことで悩んでおりそのうえでこのパフォーマンスをしていたのだ」みたいなことが分かってより感動して(?)鑑賞することができる。
AKB的な「接触」も、韓流アイドルだって握手会やらハグ会やらがあるし、CDを何枚買って貢献したいという欲も、それこそ韓流アイドルでもいくらでもできる。YouTubeを一日中まわしたりCDをわざわざ韓国のチャートに載るような方法で購入したり。

「物語」の有無は日本アイドルの特権ではない。「物語」なら正直どこの誰でも持っている。
じゃあ「物語」が欲しいなら加えて歌やダンスもうまいほうがよくね?とは、ならないんだから決め手はここではないようである。

 


それじゃあ他に何かというと、次に考えられるのは「密なコミュニケーション」である。
確かにこれは大多数の日本人にとっては「日本語」でないと無理で、「アイドル」的な、例えばコンサートでトークを楽しんだりする、テレビのバレエティに出る姿を見る、彼らの言葉を直に受け取る。
こういうのはもう本当に、日本語ネイティブで日本語しか使えないなら同じ日本語使いのアイドルを見るのが一番楽しいに決まっている。
韓流アイドルを見ていて思うが、やはり言葉が分からないというのはいくら字幕つきの映像を見ても、彼らの言葉のセンスなんかは全然わからないままなので、ここは「日本のアイドルを見よう」と思う強力な理由になると思われる。

で、しかしなんだが、だったらトークもうまいうえに歌がうまくてダンスもうまいほうがよくね?
て話なのである。「シバけば」それなりにできるようになるんだから。
しかし「シバかない」のである。
それは、単にトークのうまい人材がたまたま歌やダンスは苦手でしたって話には留まらない気がする。 

何故「全てが素晴らしい」人材をつくりあげようと思わないのか。
多分やればできるはずなのだが、あえて「しない」のは何故なのか。

振り付けや歌にしても私が感じるところとしては、例えばPerfumeみたいにしてみたらどうなるんだろう、と思ったりするわけなんだけどならない。
大体一緒に踊れて歌えそうな振り付けが多い。少なくとも、私のようなものがテレビなどで見かける場所では。
やればできるんじゃないかと思うんだが、だって彼らだって「プロ」としてダンスや歌を練習してきているわけだし、多分やればできるんだと思うんだが、ならない。

 

昨日腐ハウスで話していたのだが、アイドル界と腐海のテンションの差、というものであった。

腐海というのは何故だか「いかに対象を貶められるか、変態的なプレイを楽しめるか」を披露しあうというそれはそれで見栄の張り合いみたいなことをしがちな場所なのであるが、なので簡単に「サンジ君まじやばいほどキモいwwwwwwwwwwwww ありえねーwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」みたいなことを言いまくって「サンジ君のセックスまじへたそう」とかそりゃもう言いまくっていた。

あと、腐海というのは「いかに自分を殺せるか」みたいなところもあって、「とにかくこの二人のセックスが見たいのであって私は天井の染みになりたいんです」に代表される言い回し。
「サンジ君犯したい」とは言うが、「サンジ君とセックスしたい」とは基本的に言い出せない世界である。 

エロというものを扱うにあたっての腐女子の自衛としてそういう意識は恐らく発達したのとあわせて、腐女子はとにかく自意識過剰気味なので(自分含め周囲観察の結果)、そのキャラと「自分」を繋げることを腐海では特に嫌ってきた。
所謂「マジ恋枠」になるのだろうが、そういうのは「ドリーム」「夢」という界隈への蔑視とあわせて忌避されてきた。

アイドル界でももちろんそういう流れは感じるのだが、総じて腐海よりも「自分と対象」の繋がりを表明することに忌避感がないように思われる。
そこからさらに、対象をあまりにもdisることはよしとされていないようである。
アイドルというのは、多分に腐女子の世界と比べて、対象に対し「ドリームを抱く」ことが一般的なように見える。まあ考えてみれば当たり前の話で、どちらかといえば対象に「恋する」のに感情として近いからだろう。私自身も、サンジ君をすいていた気持ちとテミンさんをすく気持ちには微妙に違いを感じる。だからこそ、「誰かの愛するひと」であるアイドルは、disることをこそ忌避しなければならない。

多分、腐海と夢界隈が、そこではお互い出会ったら不幸になるので色々の末に住み分けて顔を合わせないようにしているのに対して、アイドル界はごっちゃに住んじゃってるのだ。
「愛してるよ」というアイドルがいて、それに「ああ、なんて素敵なんだろう」と真剣に思っている人の横に、「愛してるwwwwwwwwwww やべえwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」と草生やしてる人が生息してる状態。
そりゃあ争いが起こる…

私はどうしても長年の腐海生活のせいなのか、自意識を捨てきれないせいなのか、「ああ素敵」と心の底から思っているのと同時に、その横で「愛してるwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」と草を生やす自分を捨てきれない。
心の底から、「ああ素敵」だけに傾くことができない。
だってそうやって「ああ素敵」だけに心を傾けたら、disられたときに本当に自分も傷ついちゃうからだ。
disられた時の準備を常にしてしまうのは今更心の鎧取れないです!!みたいな。先に自分で笑っておけば「いやわかってるんだけどね!!???」て言えるからね。
そう考えてみると、多分全部の心を「ああ素敵」に傾けてるひとのほうが、勇気があって心が強いと思う。


そもそも女が男を眼差すこと自体に、社会からの圧力がある。


顏ペンになったらどうしよう…:思春期のKPOPファン事情? : パンチャ男とドゥグン女のKな生活

 

こちらのブログ(この記事を筆頭におもしろんですこの方のブログ)で書かれていたのだけど、「顔ペン」というのは「顔ファン」のこと。(ペンは韓国語で「ファン」)
特に10代のような若いファンの間で、新規のファンなどを「所詮顔や外見だけ見てすきになったんだろう」と排斥するような言動として使われている。
韓流アイドルだけでなくて多分日本の男性の何がしかに対する女性ファンの間では広く見られるのかも。

ここで以下のような指摘があります。

 

“アイドルファンが「新規」を嫌ったり好ましく思わないというのは(当然の理として)あると思いますが、それを「顏ペン」と表現するのは、やはり男性アイドルの女性ファンに限られるのかなと思います。

つまり、「男性が女性を審美の対象としてまなざす」という行為は、比較的当然のように行われているのに対して、「女性が男性を審美の対象としてまなざす」という行為は、厳しく制限され、同性によって監視されてさえいるわけです。

ミドルティーンの女性というのは、なかなかしんどいものですね。せっかくアイドルという「じろじろ見ていい美しい男性」を相手にしているのだから、事故画なんか貼ってないで、顏はもちろん、尻だの、胸だの身体のすみずみまで愛でることが出来ればいいのになと思います。どこが可愛いと感じたのか、美しいと感じたのか、エロいと感じたのかについて、自分なりに「愛でる言葉」を紡いでいくことは、それ自体、非常に豊かな営みのはずですが、現実の社会(とくに日本の教室空間)の中ではなかなか難しいのかもしれません。”


若く美しい(そうでなくても)男性アイドルの外見を消費し尽くすことを推奨する立場ではないけども、「外見の美しさ」というのを手放しで言葉にすることへの忌避は、特に10代に限らず見られると思う。
腐海ではそれは「自分は天井の染みになりたいのであってそのキャラとどうこうなりたいわけではない」というエクスキューズとして、「wwwwwwwwwwwwwwwww」として現れる。

じゃあ「自分と対象」という関係が比較的明確であるアイドル界ではどうするのかというと、「その外見だけですきになったわけじゃない」というエクスキューズになるんだと思う。
別にイケメンじゃないアイドルがいたとして、本当は「イケメンじゃない」方が多分都合がいい。
「別にイケメンじゃないけど、でも○○だからすきなのだ」とすぐに言えるからだ。 

この「表層によって判断する」ことを忌避する感じは、女→男に限らず割にこの社会全体を覆っている気がしていて、「内面をこそすきだから応援しているのだ」と、言いやすくするために、もしかして日本のアイドルは外面(歌やダンスも含め)に「未熟」を演出しているのではないか。
「歌がへただけど、ダンスがへただけど、でもそうじゃないところにそのひとの真価があり、私はそれをすきなんだ」とすぐにファンが言えるように。
「わかりやすい表層」などでは「私はひとを判断しない」というエクスキューズのために。
そしてそれが「未熟」な外面であるということは、ファンにある種の優越感を与える。
こんな「ぱっと見ではわからないよさ」を、「私は知っているのだ」という。

 


などと色々考えていてふと思いついたのは「箱根駅伝」であった。

箱根駅伝」て不思議な存在であると思う。
元旦にプロが走るニューイヤー駅伝がやっているというのに、その後の箱根駅伝のほうが俄然盛り上がる。
箱根駅伝を走るのはプロではない。学生である。
より「走り」を見たいならプロが走るニューイヤー駅伝を見たほうがいいに決まっているのだが、何故か、単なる「学生」が走る、しかも全国で予選を行っているニューイヤー駅伝と違い関東の大学しか出場できない箱根駅伝のほうが、めちゃくちゃ盛り上がる。

なんでなんだろうと思う。
私も例に漏れず毎年だらっと見ているのだが、箱根でめちゃくちゃ輝いた人材が、ニューイヤー駅伝にいくとなんとなく精彩を欠いて見えたりする。
考えてみれば、ニューイヤー駅伝を走っているのは「陸上競技」のプロで、大学生より彼らのほうがずっと「走ること」に賭けていると思うのだが(だって生活がかかっているし)、何故か大学生の走りを見てしまう。

それは多分「箱根駅伝」という物語の輝きの強烈さを、皆求めているからなのだろう。
大学の名誉を賭けて走る、「学生時代」というものの最後を賭けて走る、大学を卒業したら普通に就職する選手にとっては「走るということの最後」を賭ける。
そういう物語はものすごくぐっとくる。
それに箱根駅伝にはいつまでも出られるわけじゃない。
あくまでも4年生まで。箱根駅伝で勝つために選手を留年させまくっていたら多分非難されるだろう。
あくまでも、4年間という期限、しかもハタチ前後の青春の最後の光を放つ若い彼らの輝きが見られる場所。 

箱根駅伝というのは、箱根駅伝それだけで完結する世界である。
そもそも「駅伝」というのはほぼ日本でのみ盛んな競技だし箱根駅伝のコースは箱根駅伝にしかない。箱根駅伝のタイムは箱根駅伝だけのものだ。他に比べようもないし、比べるものもない。
箱根駅伝で勝っても世界の陸上界的なメリットは特に見えないが、とにかく国内に限っていえばものすごくお金になるし注目される。 

加えて、「学生」、つまり「素人」が走ることと「プロ」の走ることの違いとして、「文句をつけられない」という了解があることのように思う。
プロがタイムが遅くて襷が繋げられなかったら「不甲斐ない」と言うひともいるだろうが、箱根駅伝で襷が繋げられなかったらその「悲劇」はもう大変なもので、皆が「かわいそう…!!」と悼む。そこで「そんなチンタラ走ってるからだよ」とか言うのは野暮である。
それは「プロ」じゃないからである。
プロというのはそれで報酬を得ていたりするが、そうでない学生の場合、報酬や「正当な評価」といった「不純な」動機はない。
学生は箱根駅伝に全てを賭けているから、倒れるまで走るみたいなこともする。(例えば「学生がチームのために将来を潰すかもしれない怪我をおして出場する、葛藤する、というような物語が私達はすきである。)

そういう「ひたむきさ」、「無垢さ」を私達は求めているのではないか。
そして「比べようもなく」「ひたむき」で「無垢」であるからこそ、「この記録だと世界では闘えないよ」みたいな声はあまりにも野暮なのだ。
ここは「そういう場所じゃない」ということ。
箱根駅伝は「走り」の「結果」だけを見る場所ではないということ。
そしてそれを楽しむひとならば、その「何か」を知っているのだ、と表明できるということ。  

日本でアイドルが求められている物語というのは、ひょっとして「箱根駅伝」みたいなものなんじゃないか、とふと思った。
世界のほかの何とも比べられない「何か」を背負っている、私達に見せてくれる場所。
それは絶対評価の世界だ。
日本のアイドルを見て「歌もダンスも微妙…」とか言うことは、多分箱根駅伝見て「でもこの選手のタイムじゃオリンピックには出れらないよね」みたいなこと言うのと同じなのだと思われる。
絶対評価の世界を、外から相対評価しても多分それは、その絶対評価軸で見ている人々にとっては全く無意味なのだ。

 

2005年に刊行された『心で知る、韓国』(小倉紀蔵岩波書店)という本がある。
私の手元にあるのは2012年に岩波現代文庫から再刊されたものである。
もう10年も前の本なので韓国社会の現在はまた変わっているのだろうが、ここで興味深く思ったのは以下の記述である。

 

“私がそれまで日本で暮らしていた空間というのは、完全にポストモダンに支配された八〇年代の東京であった。八〇年代の東京とソウルは、およそかけ離れた空間であった。すべてが差異性のみによって位置づけられる東京という記号の海を泳いでいた私は、ソウルに来るや、ここでは身体や思想や感情などというものが、いまだに記号化されずにきしみながら生のまま叫んでいる姿を、まざまざと見るに至ったのである。そこでは「普遍」というものが最高の価値をもつものとされ、韓国の「特殊」のうちに最も純粋なる「普遍」を発見しようとする知的営為が懸命に進んでいた。……しかしながら時代が変わり、九〇年代に金泳三大統領の時代になる頃から、韓国における「文化」の位置づけも、急速に変化するようになる。ひところでいえばそれは、「世界化」という戦略の登場による変化なのであった”

 

この「普遍」を求める姿勢というのは、朝鮮王朝時代に確立していった儒教(特に朱子学)社会のなかで培われたものであるという。
「普遍的に美しい」ものを求める。
まさに「未熟」を愛でるとは全く違う世界。

今の韓国社会が果たしてどうなっているのか私は明るくないので分からない。ポストモダンが長い日本の社会では「普遍」は失われてきたが、韓国では現在どうなのだろうか。とりあえず外から韓流アイドルだけを見ている限り、まだ日本よりは「普遍」が存在しているように見える。

もちろん「普遍」を重視しないということはそれはそれで呼吸を楽にする。まさに「みんな違ってみんないい」。
それで救われることも多い。
美しくなくても、コミュ障でも、なんでも、「それでいい」と思えたらそれは時々命さえ助けると思う。私自身もそうだろう。

ただし、全ての「普遍」を失ったら、私は語る言葉を持てないのである。語るためには、何がしかの「普遍」を信じることが必要だからである。
理想がなければ未来を語ることはできない。


美しくて!歌も上手くて!ダンスも素晴らしい!!!という「普遍」は、「普遍」を失った世界のなかですっごいやみつきになる刺激物って感じがする。
「普遍」でビンタされて「ハっ!!!」てなった感じ。
「ナンバーワンにならなくてもいい もっともっと特別なオンリーワン」的な考えが今の日本のなかでは優勢だと思うが、しかしSMAPがそれを歌うというのがまた恐ろしいところで、長年芸能界で生き残って来た彼らが単なるオンリーワンであるはずがなく間違いなくナンバーワンであるはずなのだ。
その彼らが、ナンバーワンじゃなくていいと微笑むのである。
オンリーワンでいいといいつつ、しかしこの世界には確かに「ナンバーワン」とそれに付随する序列がある。しかしあくまでも「オンリーワンでいい」と言う。
「オンリーワン」の海のなかでしかし確実に存在する目に見えない「ナンバーワン」とそれを定める基準の曖昧さに多分私は、泳ぐのが疲れていたのだと思う。


日本の「未熟」なアイドルを愛すには「物語」を事前に習得する必要がある、と言ったが、実は「物語」を必要としているのは私の方なのである。

「普遍」という物語。
外部と繋がる物語。