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腐ハウスブログ

腐女子4人でシェアルームしてます。

腐ハウスの毎日とそれぞれの毎日

オリエンタリズム

くるくる

オリエンタリズム、という言葉はそれなりに聞いたことのある言葉だけど、それが何なのかと言われると説明できない。
私は大学ではアジア史を勉強したのですが、「オリエンタリズム」についてはきちんと専論を勉強したこともないので(お恥ずかしい限り)、とりあえずすぐに読めたものを少しだけ、ここに紹介しようかなと思います。本当は色々あるはずなので、本当にすぐ読めたものだけです。メモ的に。

まず「オリエンタリズム」とは。

サイードの『オリエンタリズム』を訳した今沢紀子氏が、『東方学』(第73号 1987年1月31日刊行)に「オリエンタリズムをめぐる批判――エドワード・サイード著『オリエンタリズム』に即して」という論考を寄せていた。

 Orientという語はラテン語の「日の出の地」を意味する語を語源にもち、本来は現在中東と呼ばれる地域を指し示す語であったが、時代が下ってヨーロッパ人の視野が、東方に広がるにつれてその指し示す範囲も東方に拡大した。したがって、ヨーロッパ人にとってOrientとは第一義的には中東の諸地域を意味し、ヨーロッパ人によるOrientに関する学問としてのオリエンタリズムも、その中核は中東のイスラム世界における芸術、文学、歴史、宗教等についての研究であって、中世以来の長い伝統を誇ってきた。しかし第二次大戦後、研究対象であったOrient諸地域で民族解放運動が起こり、その結果これらの諸地域がヨーロッパ諸国の植民地支配のもとから脱していったことは、伝統的オリエンタリズムに一大転機をもたらした。すなわち、これ以後オリエンタリズムの内部でいわば体制内改革として、この新しい状況に対応するためのオリエンタリズム強化・再編が模索される一方で、オリエンタリズムを全面的に否定してその終焉を期待する立場に立つ外部からの批判に晒されることになった。

( 1987年 東方学73 199-200 )

 

これがまず「オリエンタリズム」のひとつの意味であろうと思う。そしてさらに、このオリエンタリズムに対して批判を行ったのが、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』(1978年、日本語訳は1986年)という本である。現在では、「オリエンタリズム」と言われるとまず先にサイードの本が思い起こされるのではないだろうか。

 

 エドワード・サイードは1935年、英国の委任統治下にあったパレスティナイェルサレムに生まれた。1930年代半ばといえば、ナチスの迫害を逃れたユダヤ人入植者の急増によってアラブ・パレスティナ人の権利が奪い去られる方向でパレスティナ社会が激動した時期にあたる。その後1948年のイスラエル国家成立前後の混乱と以後数十年間現在に至るまで幾度となく再燃した軍事的紛争の過程で、数百万のパレスティナ人が家郷を追われたことは周知のとおりである。具体的な時期や経緯は詳らかでないが、サイードもまた若くしてパレスティナを離れた経験をもつ。その後やはり英国の支配下にあったカイロに赴き、その地のヴィクトリアン・カレッジに学んでパレスティナに居た時と同様に西洋風の教育を受けた。それからさらにアメリカ合衆国に渡ってプリンストン、ハーバードの両大学で学位を取得、そのまま学究生活に入った。

( 同上 202-203 )

 


上記のような経歴を持つサイード氏は、その著書『オリエンタリズム』のなかで、以下のことを指摘した。

 

 西洋と東洋(オリエント)とを分かつ境界線とは実は西洋によって生み出され、西洋優位の力関係を背景として強化された人為的産物であって、この境界線の彼方についての西洋の知識は実際には真の知識つまり真理ではなく表象にすぎない。そしてそうした境界線を維持し、そうした「知識」を通用させることに与って最も大きな役割を果たしたのがオリエンタリズムである。

( 同上 205 )

 

 

上記のオリエンタリズムの話では、日本はじゃあどうなるんだということになる。このことについては以下の論文が大変分かりやすかったです。

近代日本絵画のアジア表象(日本研究, 26巻, pp.185-220, 20021201)

国際日本文化研究センター学術リポジトリ 

(誰でもPDFでダウンロードして読めます)

HPの抄録をそのまま引用します。
 

 一八六七年の高橋由一による上海渡航以来、近代日本の画家たちは、アジアを描き続けてきた。本稿は、エドワード・W・サイードのオリエンタリズム論を利用して、近代日本絵画におけるアジア表象を分析したものである。
 『オリエンタリズム』でサイードは、一九世紀フランスにおけるオリエンタリズム絵画の流行については、ほとんど論じていない。しかしサイードの議論を引き継いだリンダ・ノックリンは、そこに西欧中心主義が見られると主張している。では、アジアの植民地を描いた近代日本絵画にも、サイード的意味でのオリエンタリズムは存在するのだろうか。
 画家藤島武二は、一九一三年に朝鮮半島を旅行したが、その紀行文のなかでフランスのオリエンタリズム絵画に言及している。藤島は、フランス絵画に植民地アルジェリアをテーマとした作品が多いと述べた上で、日本人画家も新植民地朝鮮を美術の題材として積極的に開拓すべきであると言う。また、アジア女性を描いた近代日本の肖像画には、フランス絵画のオダリスクの主題から影響を受けたと考えられる作品もある。さらに梅原龍三郎は、アジアの植民地にこそ鮮やかな色彩があり、日本にはそのようなものはないと語っている。これらは、日本絵画がオリエンタリズムの影響を受けたことを物語っている。
 しかし、アジアを描いた近代日本絵画を、サイードのオリエンタリズム論で説明しつくすことはできない。和田三造らによる多数の作品が、日本とアジアの共通性を強調している。児島虎次郎の絵にみられるように、非西洋である日本は、「自己オリエンタリズム」によって、「東洋人」としてのアイデンティティを形成してきた。従って、宗主国日本もアジアの植民地も同じ「東洋」と見なされる。大日本帝国は、植民地も日本も等しく「東洋」であるという言説によって、支配の正当性を確保しようとしてきた。アジアを描いた近代日本美術にも、同質性の強調という特徴を見出すことが可能である。

 

 

この論文は主に絵画から日本におけるオリエンタリズムを考えるものである。ここで指摘されているのは、西洋が中東をオリエンタリズムによって描くとき、それは「自分たちキリスト教徒」と対比してのイスラーム、「官能性・残虐性・古代性の強調」が特徴であるということである。自分たちとは違うもの、違っていて劣るもの、というような意識とも言えるかと思う。

 

では一方で明治維新以降の日本においてはどうかというと、そこで強調されるのは、アジアと自分たちの異質性ではなく「共通性」であるという。それはもちろん日本がヨーロッパから客体として見られるところの「アジア」にほかならないからであり、差異の強調、政治性をオリエンタリズムとするならば、日本の絵画にそれは当てはまらない。

では日本の絵画にはオリエンタリズム的な問題は無いのかというとそういうわけではない。日本の絵画では、ヨーロッパから「見られる」客体である、という事実をそのまま受け入れ、自分たちが見られるものであるということを踏まえながらさらに他者(自分たち以外のアジア、つまり日本にとってのオリエント)を客体化し「見る」側にもまわったという点が指摘される。それを筆者は「自己オリエンタリズム」と呼んでいる。

 

その例として出されるのが、黒田清輝の《舞妓》(1893年)及び《湖畔》(1897年)である。このふたつの作品では、舞子や着物姿(つまり民族衣装)の女性が描かれており、西欧から見た日本という異質さを意識して描かれている。しかしまた、これらの絵画には生々しい性的な要素はない。生々しい遊興の姿など、日本人にとって好ましくない要素は排除し、これによって西洋オリエンタリズムを取り込みつつ、日本人にとっても都合がよく好ましい絵画となっているのである。

※ちなみに民族衣装を着た女性、というモチーフがオリエンタリズムにおいてはよく描かれる。

そしてそのような自己オリエンタリズムがさらに、日本にとってのアジア、植民地へと注がれた。論文では、児島虎次郎内(1881-1929)の作品を取り上げている。彼は1911年、パリのサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナショナル・デ・ボザールに《和服を着たベルギーの少女》を出品し、初入選を果たしているが、これは白人女性のモデルに東京から取り寄せたという着物を着せた姿を描いた絵画である。

《和服を着たベルギーの少女》は、日本人画家が西洋のジャポニズムに寄り添って誕生した自己オリエンタリズムの作品と言えよう。キモノの白人女性を題材としたこの作品からは、例えばクロード・モネの《カミーユ、あるいは日本娘(ラ・ジャポネーズ)》(1876年)や、ジェイムズ・ホイッスラーの《陶磁の国の姫君》《金屏風》(共に1864年)が直ちに連想される。モネの作品では、色とりどりの団扇を背景に、キモノを身に纏い扇を手にした西洋人女性が描かれるが、ここで展開されている日本趣味は、そのまま児島の《和服を着たベルギーの少女》に流れ込んでゆく。鑑賞者たる西洋人の、日本対する異国趣味的まなざしを吸収し、西洋人の視線に合わせて自分の作品を提示してゆくという戦略は、ヨーロッパという舞台に日本人の出る幕を確保するためには、最も効果的で有効な手法にほかならない。

(同論文 213-214

フランスの東洋趣味(オリエンタリズム)を理解したうえでそれに沿った作品を自ら作成する、という戦略はもしかすると現在にまで通じるのかもしれないと私は思う。

そしてこの画家は、朝鮮の女性をモチーフにも絵を描いた。1920年に同サロンに出品された《 秋》という作品である。

 児島虎次郎は、フランスの東洋趣味を知り尽くした上で、彼らの好みに合うように、しかし日本にとっても受け入れられる表現の範囲内で、植民地朝鮮のチマチョゴリを描いた。これにより、画家はヨーロッパで自分の地歩を固めることができたのである。当時朝鮮半島は、一九一〇年の日韓併合から約十年が過ぎていた。日本の朝鮮統治が国際的に承認されてから十年後、日本人画家は終に、パリ画壇で朝鮮を表象する力と権利を獲得したというわけなのである。さらに児島虎次郎は、西洋の東洋趣味的まなざしを意識しつつ、植民地朝鮮の服装をした女性を描くことによって、日本を観られる側から観る側へと、立場を巧みにずらすことにも成功している。もっとも、この《秋》を以て直ちに日本の朝鮮半島支配を糾弾する材料とするのは、いささか早計であろう。《和服を着たベルギーの少女》《秋》の二作品が、共にフランス向けに構成された東洋趣味の絵画であるとするならぽ、西洋に対して、日本と朝鮮は同一の地平に立つことになる。欧米諸国を前にして、日本は自らが東洋人であることを、強く意識しないわけにはいかない。西洋列強に文明国として認知される必要があった近代日本は、欧化を進めると同時に、西洋からのまなざしに合わせた形で自らを提示する必要に迫られる。このような中で、日本も朝鮮も等しくヨーロッパ人のオリエンタリズムの視線にさらされているのであり、唯一違いがあるとすれば、日本文化を代表するのがほかならぬ日本人自身であったのに対し、朝鮮を表象したのが、宗主国日本の画家であったということ以外にはない。

(同 214-215

 

「同質性の協調」という日本のオリエンタリズムの特質は、では、西洋の差異を強調するというオリエンタリズムとどのような問題点の違いがあるのか、という点については、論文では「同化しながら差別する」という日本の帝国主義の戦略に通じるものがあると指摘している。これは「大東亜共栄圏」などとも同じ、日本とアジアの共通性を指摘することで、逆に日本の帝国主義、植民地支配を正当化することになるのである。これは、西洋のオリエンタリズムとは全く違った戦略であると筆者は指摘する。

 

 一方で、誰が表象するのかという点こそ、実は問題の本質であるかも知れない。現実の国際関係において、植民地時代の朝鮮に一切の外交権はなく、日本が、とりわけ帝都東京が、西洋列強諸国に対して朝鮮を代表する権利を掌握していた。美術においても、フランスのサロンに朝鮮人画家は存在せず、残念ながら半島の画家に、洋画という舶来の技法を駆使して本場欧州で活躍するだけの力量はなかった。パリのサロンに児島虎次郎が《秋》を出品するという行為は、欧米諸国において日本が朝鮮半島を外交的に代表している現実と、遥かに平行した現象と言えよう。《秋》という一枚の絵の周辺には、同時代の政治力学の反射音が鳴り響いているのである。

(同 215

 

 

実際に存在する差別や支配や暴力をまるで「なかったこと」のように、加害者の立場であるものが描く、ということが、まさに日本のオリエンタリズムなのかもしれないと、この論文を読んで思った。

少なくとも、知ってほしいと思う。「オリエンタリズム」という言葉が、現在、もしくは過去において、一体どのような意味を持っていたのか。

日本人が日本のイメージを使い、まさに「自己オリエンタリズム」をする、というのはそれはそれでその現象について考える必要があるかと思うが、今私が話したいのは、「他者」を表象する、ということである。自分とは「違う」ものを、いかにして表すのか。共通性を強調することも、差異を強調することも、どちらも対象の「他者」の姿を歪め、自分の視線を自身に都合のよいものに変えてしまう。

日本のなかにあるアジアへの蔑視は全く終わっていない。むしろ強まりつつあるのではないかとさえ思う昨今である。そのなかで、「オリエンタリズム」という、他者を見るそこに立ち現れるものが、一体どのような意味なのか、その言葉を使うということはどういうことなのか、今一度、よく振り返りたいと思う。もちろん自分もである。誰も踏まないということはできない。できるのは、「自分は今何を踏んでいるのか」と、どれほど頻繁に、広く、考えることができるかだけである。

 

 

 

 

 

 

働くことは難しい

くるくる

『この世にたやすい仕事はない』を読んだ。小説で、著者は津村記久子である。

 

津村記久子というと2009年に『ポトスライムの舟』芥川賞を受賞したので私は初めて名前を聞いたんですけども、当時大学生だった私は、「労働と雇用をめぐる問題と女性達の連帯の物語」みたいな評を見かけても「はあ」という感じで全然読もうという気にならなかった。
それがなんで読むことになったかというと、たまたま就職活動をしていた当時、文庫化されて書店にたくさん並んでいたのを見たからだった。今検索しても出てこないので帯ではなくて店頭のPOPだったのかもしれない(もしくは私の記憶の捏造…?)。
「年収163万円、それでも生きていける」みたいな文章を見たのだ。私はそれに大変心を動かされた。

 

私はとにかくふわふわとした人間なわりに強情なので、「志望動機?そんなもんねーよ」とかエントリーシートに悪態をついているうちに1年目の就活では落ちまくって就職できず、大学を留年してもう一度就活をしたのだがそれでもまったく内定は出ず、エントリーシートを書いては連絡来ず連絡来ず来たと思ったら1次面接で落ちみたいなことを繰り返して何十社という状態だった。サイレントお祈り一生許すまじ。
思えば大学に入った当時は研究者になりたいと思っていて大学院に進学しようと思っていたのだけども、大学で教授や先輩達や同期の姿をみたら私はあんなに頭もよくないし根性もないし何より外国語を勉強するのがつらく(私は今も昔も日本語しかできない)、英語の論文ひとつもろくに読めないし、とてもじゃないけど無理であった。かといって大企業に入ってバリバリ働きたいという気持ちは皆無。ちなみに今も皆無。要は「頑張らずにそれなりに生活したい」という希望だけが一貫しているんだが、そんなふわふわした希望はこの平成大不況ではもちろん勝ち抜けないのである。ていうかいつまでこの平成大不況やるつもりなんだろうか。私昭和62年生まれだけど気がついたときからもう延々と不況だよ。私が生きてるうちに景気がよくなることってあんのかな。

 

ちなみによく「東大なら就職とか余裕でしょ」と言われるし実際余裕なひともいるけど、少なくとも私の周囲は全然余裕じゃないひとも多かった、と思う。文学部だったからかもだが。エントリーシートを馬鹿にしつつ企業にそれを悟らせないエントリーシートを書くことができるくらいには器用でないと就職はできない。
「働く気はあまりないが働けないと困ります」という志望動機で何十社と落ち続け、このまま私本当に無職になるのかしら…と不安で不安で仕方なかった。毎日ふくろうのぬいぐるみを抱きしめてしくしく泣いていたし、駅のホームで突然しくしく泣いたりしていた。今思い返すとだいぶキていたなあと思う。


そんなときにたまたま買った『ポトスライムの舟』。
主人公のナガセは新卒で入った会社でパワハラを受けてうつ病になり退社、その後奈良の実家に撤退した。現在は雨漏りするほど古い実家に母親と二人暮らしで、近くの化粧品会社の工場でベルトコンベアーを流れてくる化粧品の品質検査(ボトルに傷が入ってないか、とかを目視で確認する作業)の仕事をしている。年収は手取りで163万円ほど。実家に住んでいるのでなんとかなっているような収入である。ある日大学時代の友人達と4人で久しぶりに集まろうというので集まってみると、卒業後すぐに結婚し子どももいる専業主婦のよし乃とは話が合わず、もうひとり結婚して専業主婦になっているりつ子は何事かを悩んでいる、ナガセの近所でカフェを切り盛りしているヨシカもまたお金がない。
それからほどなくして、突然りつ子が子どもを連れてナガセのもとへやってくる。モラハラ夫と離婚したいが、行く先がないというのであった。りつ子親子はナガセの古いが広さだけはある家に居候し、ヨシカやナガセの母親とも交流しながら、離婚調停と求職活動を行うことになる。


読んで最初に思ったのは、こうやってでもなんとかやっていけるんだ、ということだった。今思うと何言ってんだという話だが、とりあえず卒業時に仕事が決まってなくてもその瞬間には死なないんだなと分かった。そのときは私も焦っていたのだと思う。周囲が周囲なだけに「内定決まったよ」とかいう友人や先輩を見てもナンタラ商事だの外資コンサルだのあるいはメーカーとか色々言っていて「そんなとこで死ぬほど働くなんて絶対無理」と絶望していた。大学生であった私には「働く」ということがどういうことなのか、全然予想がついていなかった。完全に己を見失っていたけども、『ポトスライムの舟』を読んで、そういうところで働くだけが「仕事」ではない、とやっと気づけたのだった。

 

それからは就活用の真っ黒な鞄に、『ポトスライムの舟』を必ず入れていた。

 

大学生のころはいろんなことを知らなかったし、知らなかったので興味もなかったなあと今思う。だから、ポトスライムの舟が芥川賞を取った時も全然ピンと来なかったのだ。働くことの困難も、賃金の低さも、女同士の友達との連帯も、全てピンと来なかった。今ならそれらの重要さはあまりあるほど感じるのだけど、今にならないと感じることができなかった。労働問題とか全然よく知らなかったしそれなので興味が薄かった。世の中にブラック企業というのがあることは知っていたけど、自分の身に迫った問題ではなかった。私自身がそういうところでバイトせずに済んでいたせいが大きいし、当時には私の家族や親類も幸運なことに関わらずに済んでいた。

 

就職活動というもの自体が、私が初めてぶちあたった社会の理不尽だった。外資コンサルなんてものが存在することさえ就活するまで知らなかったんですけど、皆いつそんなもん知ったの? そしてそんなところの内定を取ってきたひとたちを見ながら、私は地元の、イオンで交通整理やってる同級生や老人ホームで看護師やってる同級生とかを思い出した。この世には恐ろしい格差があるのだと、背中が寒くなった。
なんで女だけ「ワークライフバランス」とかいちいち質問せんといかんのか、なんでこんな真冬にスカートストッキングで外に出んといかんのかも一切わからんかった。
大学の、教職のために教育学部で受けた講義で、格差や男女差別の問題に対して「この社会の理不尽!」と先生が激しく憤っていたことを思い出した。それから文学部のドイツ史の先生がジェンダー論をやっていたことも思い出した。文学部の進学説明会で上野千鶴子先生が女性差別について強い言葉で語っていたのを取り巻いていた冷たい空気についても。私はあれらをもっと正確に、受け取っておくべきだったのだ。


働き出してみると、働いていくということは本当に本当に難しい、ということがわかった。ポトスライムの舟は私の周囲で確実に現実になった。
私が新卒で就職した会社では、まず現場職員の給料の低さに驚いた。こんな金額では到底都内一人暮らしなど不可能というもので、こんな給料でよしとされている社会やばいと思ったし、宮崎では相当いいとこと言われているところに就職した地元の友達の手取り額聞いたら相当低くてびびったし(東京の3分の2くらいでは…?)、本社の残業の多さと女性社員の少なさは思った以上にインパクトがあった。
これが日本の「普通」なのかもしれないが、毎日夜10時まで働くなど狂気の沙汰ではないか?私は農村で生まれ育ったせいか、都会の「サラリーマン」というものを身近で見たことがなかったんだけども、まじでみんな10時とかまで働いてる?まじで??
それがどうも「まじ」らしい、ということが分かってきた。ありえない、と思った。夜帰ってくると子どもは既に寝ており…サラリーマンの悲哀…みたいなのをよくテレビで見かけてはいたけどそら子どもになど会えるわけがない。10時まで働いてたら。そして誰かと結婚したりても両方が同じように10時まで働いていたら、子どもなど育てられるわけがない。ということは、どちらかが辞めねばならない。当然女が辞めねばならない。

そんな馬鹿な、と思った。私は、正直なところ、結婚で仕事を辞めるひとなど今時いないんじゃないかと思っていた。大変浅はかだったが、そんな昭和みたいなこと今時ないと思っていたんですよ。あった。全然あった。今時でも全然あるわ。ていうか物理的に両方とも働くなんて無理だわ。
私はこんなところでは到底働けまい、と即座に思った。

 

大学を卒業してみんな働きだして以降、心身を壊して辞めるということが周囲のひとに次々起きた。
同年代の親戚の男子は1年で東京の仕事をやめて宮崎に戻った。地元の集落に帰ると、心身を壊して撤退してきたひとが結構いる。そんなひとばかりだ。大学のときの友達も、1年で仕事を辞めざるをえなかった。


こんなとこでは働けない、と思ってから私は即座に転職した。転職できたことに、私の「経歴のよさ」が一役どころでなくかっているのは自明である。
自分の経歴で、『ポトスライムの舟』に共感を抱くというのは「おこがましかった」のではないか、とも、思う。
ゆうても私、東大卒だし両親がいて普通に働いていたし特に家庭内不和とかもなかったし、しくしくしたりもしたけど結局いわゆる「大企業」の会社に新卒で就職できたし、今転職して中小だけど毎日定時で帰っている。
うつ病になって退職し現在手取り年収163万円という状況に、果たして共感する「資格」はあったのだろうか。

 

例えばなんですけど「うちも田舎で~」と聞く大抵の場合私の地元よりは街なので「それは田舎じゃねえよ!!」と言いたくなったりしてしまう。心が狭い。すみません。徒歩圏内に店があるうちはまだ街なのでは…?とか言いたくなったりする。公共交通機関に自力で乗ってどこかに行けるうちはまだまだよ…とか言いたくなる。そういう気持ちが、あることを私は知っている。


一方で、津村記久子の小説に出てくる人々というのは、大体大卒とかでそれなりに仕事をしていて、びっくりするような金持ちとかインテリとかはいないけどもびっくりするような不幸もない。それはそれで「ある程度の階層」の話であるとも言える。「大学に行ける」という階層のお話。大卒の人々が就いている職業お話。それにみんな「日本人」だ。出自による差別とかは、その話のなかには見えない。
これは、「そうじゃない人々」にとっては単なる切捨ての物語だろうかと思うと、つらくなる。

 

あと最新作はそうでもないと感じたけど、特に『ポトスライムの舟』なんか読むと、特に苦労もせず結婚できて専業主婦になって子どももいて経済的にも割合恵まれているというような大学の同級生「よし乃」への描写はキツい。なんだか「分かり合えない世界のひと」という感じで、主人公たちの身に迫った苦労や悩みや金銭的な苦しさに比べて「何フワフワしたこと言ってんだ」みたいな突き放したような冷たさを感じる。
TLに現れる、電車に乗っていたら「妊婦何様だコラ」とか嫌がらせを受けた、という話を思い出す。この世の「恵まれている」んじゃないか、と見なした人々への冷たい視線が、こんなところにも顔を出す。津村記久子は女同士の連帯を書くが、やはり社会に蔓延るミソジニーにひょっこりと腕を掴まれている。

 

この世にはとにかく山ほど差別や理不尽があって、私が知っているものは少なく、私が普段は関心の外に置いてしまっているものはとても多く、私が共感できるものはものすごく少ない。
自分が直面していない差別や理不尽に関心を払わないでおきながら、ふと目についた自分に直接降りかかってきた差別や理不尽にだけ抗議の声をあげるとしたら、随分都合のいい話だし説得力もないなと思う。

私の不幸は、「所詮その程度」の不幸でしかない。

 

しかし、それだからといって「お前は不幸ではない」というのも変な話だと思うのは私の不幸がやはり「所詮その程度」だからだけど、でも、「その程度」の不幸でも、私はそれよりは幸福になりたいと思うし、「その程度」の不幸でも私はそれが終わって幸福になってほしい、と友人たちに思う。

 

以前にこちらのブログでこの記事の翻訳を読んだ。

yk264.hatenablog.com


確かに、まあそう言いたくなることも、ある、と思う。
これは、なんというか、違うかもだが、例えば二時間電車に乗らないと都心に出られない、不便だ、とか言ってるひとに対しておい待ってくれよ私の地元なんてそもそも公共交通機関がゼロだぞとか言いたくなる気持ちに、似ているのかもしれない。いや、違うか…

なんかこう「そんなおかみのこと、こちとら関係なさすぎて」みたいなことはある。言いたくなる。それを無下にはできない。
お互いを思いやってお互いを応援していきたいが、それができないような卑屈な気持ちにさせるほどの苦しさやつらさに、どうやって打ち勝っていったらいいのだろうか。

 


今回、冒頭にあげた『この世にたやすい仕事はない』のほかに、『ポトスライムの舟』の5年後を描いた作品であるという『ポースケ』も読んだ。

ポトスのほうでは、何かお金を稼げることで時間を埋めておかないと不安になっていたナガセが、ポースケのほうではピアノを習っていた。月謝を払ってピアノを習う、ということができるようになっていて、本当によかったと思った。ヨシカのお店もうまくいっていたし、りつ子の子どもの恵奈はちゃんと育っていたし、前はちょっともう分かり合えないなという対象だったそよ乃が、子どもが不登校になって苦労していて、そんなに遠い世界の住人というわけでもなくなっていた。ポトスのときのヒリヒリした焦燥感やただ生きるということの困難さが薄れ、ポースケの世界は全体に丸く優しく暖かくなっているようで、よかったと思った。

 

一方で、今もまだポトスの世界にいて、つらい、苦しい、誰かを羨ましがらずにはいられないひとたちがいる。上を見たらキリがないけども、ひとりでも、ほんの少しでも、ポースケの世界に進んでいけたらいい、と思うが、それすら多分傲慢なのかもしれない。
たとえどんな仕事でも、本当にどんな仕事であっても、外資コンサルでも、イオンの交通整理であっても、「この世にたやすい仕事はない」と言いたい。
「所詮その程度」の私が言えるのは、それだけかもしれない。

 

「所詮その程度」の不幸であっても、乗り切るのがあまりにも難しいことがある。
ただ働いて、明日の家賃や携帯代金やお昼のコンビニ代を捻出する、それだけのことが、本当に困難で、それすら達成することが本当に難しい。


日曜にお墓参りに行った。晴れていて暑かった。
この世にたやすいことはひとつもない、と思う。私にとってたやすいことは誰かにとってはとても難しい。
難しいことが、死んだら全くないのだろうか。
そうならいいと本当に思うんだけど。

 

 

 

 

SHINee WORLD 2016~D×D×D~ Special Edition 楽園の先に地平線が見えた

くるくる

SHINeeの京セラドームと東京ドーム行ってきたぞ!!!

思い返せば2014年、ホールツアーからのアリーナツアー一日目広島グリーンアリーナで「ドームが決まりました~!」という発表に沸き、2015年3月14,15日の初ドームに誰もが号泣した初ドームから1年以上が経過した2016年5月である。

今回のドームはFCからのメールで昨年末(だったっけ?)さくっとお知らせされた。京セラ!行くっきゃないぜ馬鹿野郎!!!!!と
意気込んでフォロワーさんとも約束を取り付けたりなどしていたら、なんと初日仕事が入った。オーマイガッ!!

前回ドームというともうとにかく泣いた!号泣した!!感動した!!!という言葉しか出てこない本当にすばらしい内容だったんだけど、それは「やっとここへ辿り着いた」みたいな感慨が多分にあったせいもある。さて、じゃあ今回はどうなんだろう。というのが最初に思ったことだった。「二回目」というのはまあゆうたらそれが「特別」じゃなくて「日常」になる入り口なんだけど、そうしたらSHINeeはどうなるんだろう、というのが、あった。


というわけで迎えた京セラドーム。
私は土曜の仕事のあと飛行機にのって大阪へ向かった。何故飛行機かってマイルが貯まっているからさ。大阪に着いて携帯をフライトモードから解除すると、初日の感想がどばどば流れてきていた。それらを確認しつつ初日を見てきたフォロワーさんたちと梅田(?)の韓国料理屋さんで合流し、ご飯を食べた。そこはK-POPのMVが流れている店で、最初は空気をよんでSHINeeを流していたのだが、気がつくとバンタンになっていた。恐るべし防弾少年団。

私は話を聞いたりしながら、若干不安を覚えていた。TLやフォロワさんからの情報によると、「セトリも衣装もアリーナツアーとほぼ一緒」ということで、「去年みたいな特別感がなかった…」とちょっとがっかりしてたひとも結構いたからだ。
まあ確かになあ、とも思った。なんしろ前回がものすごい気合入ってたから、衣装もセトリも全部違ったし、それと比べちゃうのもあるかなと思った。そして自分も見て比べてちょっとガッカリしちゃったりしたらどうしよう、と怖くなった。

しかして当日、お友達とお好み焼きを食べたあと京セラドームに向かったわけですが、あふれるしゃおるちゃんたちの波を見ていたら心がちょっとずつ穏やかになるのを感じた。みんな楽しそうじゃないか!

そしてコンサートがはじまった訳ですが、何よりこの日、私今までで一番席がよかったんですよ!!!!!スタンド中央区の前から8列目くらいだったかと思うんですが、とにかくむちゃくちゃ見やすい。今までこんな中央からコンサートを見たことなかったけど、すごい!!!めちゃくちゃ見やすい!!!!!!ライティングがすごいきれいでした。真ん中から見るとこんなにすごいのか!!と感心しきり。
私はアリーナよりはスタンドのすごくいい席でコンサートみたい派なんですけど、これはすごかった。こんないい席向こう10年は回ってこないかも。ありがとう…感謝極まりない…。

コンサートの内容なんですけど、雑な感想申し訳ないんですけど、よかった。むちゃくちゃ楽しかった。
ライティングとかのきれいさに見とれたのもあるけど、セトリがあんまし変わらんのも全然気にせず楽しめた。知ってから行ったのもあると思う。


ていうかソロなんだけどね!!

個人的には一番印象に残っているのはなんつってもきーちゃんのソロだった。これね、本当によかった。BoA先輩の曲知らなかったけど(すいません…)めちゃくちゃかっこいい曲じゃないですかこれ!すぐ音源買ったよ。
インスタのおしゃれ写真にアーバンライフなきーちゃんがドームの大画面に映し出されて、その前で「ピザ!」と書かれたしかしホットドッグの絵のシャツを着たきーちゃんがバキバッキに踊る。私は思わず凝視してしまった。

いや、ほら、あのね、あったじゃないですか、リフォーム的な疑惑的な的な的なが。
「変わんなくない?」て言うひとも多かったしほんとのとこなんか分からんわけですけど、私の、個人の、個人的な感想ですけど、最初見たとき、「お、おおう、…まじで!?」て感じで正直えっ誰?みたいな。いやいいんですけどね、それ自体はまあやりたいならと思うけど、なんていうのか…こう、親しい友達と一ヶ月ぶりに会ったら突然リフォームしてたみたいな。そういう類の衝撃っていうか。わー久しぶり~て向こうから友達走ってきて、あーひさし、ぶ…え!?みたいな。そんで友達何も言わないみたいな。普段から何か言ったりしてたらああそうかあとも思ったんだけど、全然なかったのにいきなりで、特に言及もなくて、えっあっ気にしてたんだ、気にしてたんだ今まで、そっか、…そっか~~………!というね、感じだったんですよ。
しかもゆうたらその友達とは「世の中の美の基準と違うところもあるけど、ありのままで一緒におしゃれしたりしたいよね!」とか話してた(と勝手に思っていた)感じだったので、あ、ごめん、気づかなかったけど気にしてたことあったんだ、あったんだね、あったんだね……と。や、なんだろう、ああすごい「ありのままで~」とか言って私もすごい勢いで「ありのまま」の幻想をきーちゃんに投影してたんだなってね、そう思って、ああ、ごめんなさい、今まで、ごめんなさい、とも、思ったんです。

その後も写真があがるたびに「お、おおう…」と思っちゃうところがあって、ああ私きーちゃんの顔ペンなとこもあったのかなあ、いやどうなのかなあ、とかひとりでごろごろしていた。

その、私がごろごろしながら見ていたきーちゃんのインスタの写真が、ドームの大画面に映し出される。疑惑以前の写真も映った。全部美しくて素敵なきーちゃんの写真であって、その前できーちゃんが「輝きたいなら磨かなきゃでしょ」と歌っていた。それを見ていたら、なんだか、私がひとりでごろごろしたりしていた気持ちが、ふっと浄化されたような気がした。
お前はひとりで何を思ってるのだ、お前はきーちゃんのことは何にも知らないじゃないか、そして、ここで大画面に映っている、踊っている、今この瞬間のこのひとこそが、私の目に映るきーちゃんの全てではないか。
そう思ったら、何かが軽くなるのを感じた。とにかくこれでいいんだろうと思った。輝きたいなら磨かなきゃなんだもの。
そんで、「もっとハートちょうだーい」ってインスタ自己顕示無間地獄にもポジティブに乗りこなしていくきーちゃんの姿に、本当に軽やかなものを感じた。いやまあそれもまた勝手な思い込みなんですけどね。実際のとこなんか知りませんから。
今改めて歌詞をみると本当にいいですね。ボア先輩もありがとう。


そのあとのジョンヒョンさんのクレイジーは真っ赤な衣装がちょっとセクシーな感じもしてよかったですね。しかしデジャブよりさらに掛け声が難しくないですか…金ジョンヒョンて叫ぶタイミングがよくわからないまま最終日まで終わってしまった。ごめん。
東京ドームででしたっけ?ジョンヒョンさんが「クレイジーのキャラクターが降りてくる」という表現をしてて、そういう風に曲に対してやってるんだなと思った。ちょっと今は…と行ってたけど、新曲のちょあ見ると確かにクレイジーとはだいぶ方向性が違ってたので、気持ちをもっていくのが難しいところもあるんだろうと思う。ちょっと演技みたいですね。ご本人は演技苦手だけど。次どっかでちょあ聴きたいなあ~~ちょあちょあ!(カンタ先輩とかぶっている…)
てかちょあめっちゃよくないですかすげー聴いてる。


ミノ君のキセキはまじでキセキだった。
今まで「GReeeeN?キセキ?笑」とか言っていた過去の私はミノ君のいる方角に向かって100回土下座すべき。もうしわけなかった!!!私の心が歪んでいた!!!!この曲、幾度となく耳にしていたけどこんなに真剣に聴いたのは人生初だった。めっちゃいい歌やないか(号泣)!!!!!!!!!!!!

突然野球の実況席が映り(しかも生だったらしい。まじでか)、「9回裏、どうするこのピンチ、おおっと?ここでピッチャー交代です!!ミンホ!!!!」という興奮の実況とともにマウンドではなくステージに登るチェミノ選手。
ピッチャーーーーーー!!!チェミノピッチャーーーーーーーー!!!!!!!!

実況「さあ、この状況で、どうするミンホ選手、では、歌っていただきましょう!」
私\歌うんかい!!!!!!!!!!!!!!!!/

そして歌い出すチェミノ選手。「明日、今日よりもすきになれる~あふれるおも~いがとまらない~~」見ているこっちの思いが止まらないよ…気がついたら泣きかけていた。自分がまさかキセキでこんなに感動するとは思わなかった。ミノくん…ミノくん…なんていいやつなんだ君は!!!!!

こんなに足が長くてスタイルが良くて顔ちっちゃくてイケメンでなのにここでアイドルやってくれているミノくん、キセキを歌ってくれるミノくん、尊すぎる。多分5人のなかで、1番「今アイドルをやっていること」に1番奇跡を感じるのはミノくんなんじゃないかと思う。絶対に音楽やりたいとかダンスやりたいとかそういうところから入ったひとではないからこそ、今ここに立って歌っていることに対して、巡り合わせ的なものを感じるんじゃないかなーというのもまた私の勝手な感想ですけども。そんなミノくんが「ファンへの思い」としてキセキを歌ってくれるとはなんと尊いことかミノくんよ。

昨年の東京ドームといえば謎のタキシード仮面様(?)からのケラケラじゃんけんで全しゃおるが膝から崩れ落ちた訳だが、いや、あれはあれでね、私はだいすきなんですけど、カッコよさ極まるミノくんを期待していたミノペンさんたちも多かったのである。しかしそこで他メンバーのやることを考えて空気読み込んでケラケラじゃんけんしてくるミノくんがまた更に尊いんだけどさ…。今回どうだったろうか。カッコよさ極まるミノくんというよりも、とにかく全体に奇跡を感じるキセキであった。いやだってこんなにイケメンなのにその上ファンにこんな歌歌ってくれるなんていいやつすぎるではないか…こんなにイケメンで足が長いのにその上こんなにいいやつなんて、前世でどれだけ徳を積んだんだ君は。ここで解脱するしかないな!!!!!!!!!!!!!


おにゅさんのソロ、私ドームの前に友達と「またオペラ歌ったらどうしよう笑」とか言ってたんですけどね。

歌ったねオペラね!!!

いやー誰も寝てはならぬ。私前にファンクラブのなんかとかで小田和正すきです〜みたいなの見かけてからこれはソロ小田和正フラグ!と思ってたけど外れ方ハンパなかった。ネッセンドルマだった。ネ〜〜ッセンド〜〜〜〜ルマ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 おにゅさんのことがますます分からなくなる。お手上げだ。迷宮入りだ。おにゅさんは永遠の未解決事件や(?)。いや歌上手いですね!!?ほんっと気持ち良く声が出ますね!!!!!

おにゅさん宇宙に迷い込んだ気分で家に帰ってSHINeeの初ソウルコンのDVDを久しぶりに引っ張り出して来て見てみたら、ネッセンドルマ今の方が100倍うまかった。いやすごいわ!みんな聴き比べてくれ!!!今の方が100倍うまい!声の通りが違う!!いやーすごいわ。おにゅさんすごいわ。手術とかもあったしもっかい歌ってみたくなったのかもしれぬ。おにゅ宇宙の真理は遠い。おにゅ宇宙すごい……(ところで私は待てども待てどもおにゅさんのソロが出ないのは、多分ここまできたら会社がさせないのではくおにゅさんが「ワークライフバランス」派社員だからだと見込んでいる)


そして!!!!イテミン!!!!!イテミンのソロ!!!!!!!!!!!

みんな見た?あの衣装見た?シャアとか赤い彗星とか色々意見あろうが私の中ではこれ一択や!少女革命ウテナや!!!!!!!!胸から剣が出る!!!!間違いない!!!!!自分で剣出して自分で闘えそう!!!決闘にかけるのは自分の絶対に叶えたい夢よ!!!

日本語版が出たから絶対PYNやるだろうな〜〜DDはやらないかなーとか思ってたけどまさかone by one から始まるとは思わなかった。出だしのギターがむちゃくちゃカッコいい…!!!続くソルジャーでテミンさんの声だけがドームに響くのを聴いたら、この暗闇に浮かぶ王子様の歌声に鳥肌たったわ。テミンさんにはドームが似合うね!この大きさこそがあなたが治めるべき王国だわ…!あなたはここの王子様なの!!(アッ王子様の呪いが!)そして日本語になってる!マジカヨ!逆に掛け声ができないヨ!!

いやー衣装も素晴らしいソロだった…ああいうゴテゴテ、テミンさんまじでお似合いになるよね…真っ赤な服も素晴らしい。素晴らしいよ…テミンさんブレない… ていうか日本でなんかしたりする?ソロ活する?一応準備してお財布あっためてるから…もし来てくださるんならよろしくありがとう…もしもしなんかあるならはやくお知らせしてくれるとうれしい…お財布からヒヨコ孵りそう…ぴよぴよ…


ソロ以外もほんと楽しめました。途中バラードターンはちょっと間延びしたかなとも思うし、ラブシック絶対あるだろと思って行ったのになかったの悲しかったけど、てかもちょっとOddに入ってる曲とかやってくれていいのよ?とかも!思うけど!!思い出したらキリないけど!!

今回アリーナ含めてよかったのは圧倒的に衣装だと思う。きーちゃんが選んだ今回の衣装ほんといいよね。オシャレでだいすき。今度から全部きーちゃんにしてもらお?でもジョンヒョンさんの下半身テッカテカ衣装がドーム仕様でなくなったの惜しかったよ!あのエロいやつもっかい見たかった!


ちなみにこの日は横が韓国しゃおるちゃんで達だったんですが、とにかく掛け声のやる気が違うというか、声が出てる部分が違う。腹から出てる。何が違うんだろうか。いつも思うけど、同じ掛け声しても日本だと高いよね声が。韓国のコンサートの映像とか見ると、あっちのほうが声が低く感じる。日本語は音が高いというしその辺関係あるんでしょうか。とにかく腹から声が出てるのに感心した。私ももっと精進したい。彼女たち横でずーーっと「もしったー!!!」「きよおーー!!!」と言ってた。わかるぞ!!私もそう思うぞ!!!

 


京セラのあと、「もっとハートちょうだい」っていうところでみんなでハート出しましょうよっていうのがツイッターとかであって、私もこれまでペンラ以外のものを持ってったことなかったんですが初めてつくって持って行った。あそこできーちゃんにハートで「みんな君がだいすきなんだよ!」ていう気持ちが伝えられたらいいなあと思ったので。
果たしてどんなもんだろうと思って向かった東京ドーム一日目、ハートちょうだーーいのところでハートをすかさず取り出して見ると、きーちゃんがハートちょうだいを言い切れないほどびっくりしているのが見えた。

「ハートちょうだ………!!?????」

てなってた!すっごいよかったよね。いつも気持ちをもらってばかりだけど、伝えられる機会があるってやっぱりいいよなと私は思う。だからこういうファンの主体的なところとかすごいいいよな〜〜といつも思うのだ。お膳立てだけじゃなくて。伝わってよかった。あの歌だからこそさらにそう思う。輝きたいなら磨かなきゃでしょ、でもそんなあなたもすきだし今のあなたもすきなのよ…!

東京ドームの2日目、最終日には去年と同じマスゲーム(?)イベントがあった。時間がなくて若干バタバタしてたのは少し惜しかったけど、全体的に、本当にとても幸せな感じだった。東京ドーム2日間は、ド平日にも関わらず駆けつけた、SHINeeがだいすきでたまらんみたいなファンが多かったのかもしれないけど、ジョンヒョンさんにすごい歓声が起こったりとかSHINeeの一挙一動を残さずひろいあげる反応で、とにかくあの広い空間隅々まで、SHINeeの煌めきとファンの幸せが満ちてキラキラしていた。アイドルってこのキラキラなのかな〜〜と思った。前のときはいろんな思い入れが詰まってたけど、今回は本当に軽やかでよかった。「誰も泣かないコンサート」とか言ってたけど、「日常」になった感じ。

アイドルってとにかく思い入れを注ぎ込みがちで、私も本当にそうなんだけど、もっと軽やかに、日常に、なったら多分いいんだよなあ、と、きらきら光る緑の光達を見ながら思った。本当にきらきらしていた。こうやって煌めいて明るく楽しい空間にひたすらいたい、そしたらどんなにいいだろうと思った。どうでしょうかSHINeeのみなさま、彼らは、どこに行くんだろうか。



とかまで書いてたけどていうか昨日のこれなんなの?f:id:fuhouse:20160527231916j:image
ちょあなのはきーちゃんなの?She isきーちゃんなの??

じょんきーいずやっぱり再びリアルやったんや!!!!!!!の祭から一夜明け、私は今日21時まで仕事だったのにめっちゃ元気だ。明日も仕事だけどめっちゃ元気だ。

いや私じょんきー過激派とかじゃないんですけど、なんだろう、この「サービスの良さ」みたいなものにびっくりしてね!?SHINeeの。
「この歌詞って内容がきーちゃんみたいだよね~!」とか言ってたら「なんかこれ僕のことみたいじゃない?」ってテレビで言ったーーーーー、だしオニュさんがラジオの臨時DJで「SHINee祝ってください」てハッピバースデー歌わせるし、なんなの、なんなの、SHINeeサービスよすぎる。ファンの希望を汲んで汲みまくってナチュラルにその先から手を差し伸べてくるSHINeeのサービスまじ強いこわい!

そんなお金払ってないのにホテル泊まってみたらすごいサービスよくてびびってる感じだ。マンゴー食べたいなーつったらフルーツ盛り合わせ出てきた!?えっなにこれ!?みたいな!

こんなサービス受けたらここから出られなくなっちゃうよ〜〜こわいよ〜〜こんないいものがこの世にあるはずないのになんでこんな素晴らしいの〜〜いつどんな形でこの楽園が失くなるのか最早気が気でない。どうしたらいいんだ。一周回って心配だ。だってこんな都合のいい、ええ、えええーーー!

どうしようここはおそろしい楽園だ。


 

 

 

 

 

 

 

BBCシャーロックを見た話

くるくる

先日、ついにBBCシャーロックの「忌まわしき花嫁」を見た。
映画館で放映されたときから「同人誌だった」「すごい同人誌だった」という感想が流れていたけども、昨日実際見た感想はただひとつだ。すごい同人誌だった。

まず始まった瞬間からすごい二次創作感で、「ウワー!シャーロックとジョンがビクトリア朝のコスプレしてるよ!!!」と興奮したものの次の瞬間にそもそも大本がビクトリア朝だったことに気づく。あれ…?そもそもBBCシャーロックがもともとのシャーロックの現代パロディだったはずなのでこれは二次創作の二次創作の…んんん!?

なんかよくわからんけど認識が捻れて一周回ってビクトリア朝に戻ってきたようである。メビウスの輪的な…?

原作がビクトリア朝なんだぞ!!といくら自分に言い聞かせてもさめやらぬ二次創作感とともに見続けていると、なんかこう心の底から萌えの気持ちが湧き上がってきた。
はっ
これは、「このカポーのセックスが見たい!!!!!」という熱い気持ち!!!!


いやね、なんか最近「私もう腐女子じゃないのかな…?」とか思ってたんですよね。だって目下私の推しであるSHINeeちゃんを見ても全然そういう気持ちにならないんですよ。「わー……かわいいな………泣!(終)」みたいな。戯れる小動物を見て朗らかな気持ちになる的な。それ以上の気持ちが湧き出てこないんで、私もついにアイドルによって性欲まで昇華されたのかと感慨深い気持ちになってたんですけどそんなことなかったね。普通にあったね。

久々に腐女子の魂が体内で踊るのを感じつつ鑑賞を続ける。すると途中でいきなり現代版BBSシャーロックが出てきたではないか。
「同人誌かよ!!!!!!!!!!!」
と叫んだがそもそもこれは同人誌だった。どうやら現代のシャーロックとビクトリア朝のシャーロックはどこかでリンクしている世界らしい。特にひねりのない東アジアの人間である私は、疑問なしに「はー、生まれ変わりか~!」となんだその同人誌みたいな設定と思っていたがどうもそうではなくて、シャーロックのマインドパレスを通じでつながる深層心理的な…相互にシャーロックのヤク中の幻想みたいな存在であるらしい。どっちが現実かはわからないがどっちが現実でもあるかもしれないという。

なんだそれ、おい、すごいぞ(同人誌的な意味で)


いや生まれ変わりでもいいや。そういえばキリスト教圏の人間は生まれ変わらないのだろうか?よく知らんけどとにかくまあそれはよくて、とにかく「えーいリンクさせちゃえ!」ていうその萌えバットで薙ぎ倒す的感覚がすごい。BBCの予算でよくもそんなことやったな!!?
その後「頭を打ち抜いたのに生き返る…」という振りからモリアーティまで再登場する。クリームあんみつ苺バナナさくらんぼソフトクリームトッピング(緑茶付き)みたいな展開である。

ビクトリア朝の世界で展開していた殺人事件は、男性にひどい目に遭わされた女性達が結託して男ども殺したる隊を結成してやったことだということがわか…るのだが(わかったのか?結局この事件なんだったんだ?)、最終的に殺人を行ったのは被害者の妻である!犯人は、お前だ!とやったところ「何言ってんだよ~~ん」とウェディングドレス姿のモリアーティが現れそのままマインドパレスに誘われてしまった。結局犯人は誰だったんだ。

というか、何故あの女性達は謎の衣装で黒ミサみたいなのをしていたんだろうか。男にひどい目に遭わされた→男殺したるで団結成、というのはわかるとして何故あんなおどろおどろしい格好をしていたんだろうか。黒ミサで男の不幸と復讐の成功を祈っていたのだろうか。


あんまし関係ないけど私は、よく日本のミステリーにある「そんなこと、○○さんは望んでいませんよ!」というのが本当に嫌いである。望んでるかもしれないじゃないか。少なくとも、私は、もしなにかしら誰かのせい(と思われるような状況で)不幸な死に方をしたら、犯人にはこの世のもっとも残酷な方法で苦しんでほしいと思う。自分の友達や身内には復讐の念に燃えて自身の人生を無駄にしてほしくはないが、犯人には確実に復讐したい。貞子みたいに化けて出てむちゃくちゃな恐怖を味あわせたいね。

復讐を肯定するというより、なんか被害者の無念や悲しみがすっごい軽んじられてる気がするんですよ、「そんなこと○○さんは望んでませんよ!」ってそんな菩薩じゃないんだからさ、被害者がみんなそんな菩薩みたいなわけないじゃん?普通に無念だろ、酷い目に遭ったら。それとも死んだら全員仏になれる式の方向性なの?


社会的なマイノリティや弱者がどの属性からも酷い目に遭いやすい
→実際酷い目に遭う
→その悲しみや恨みを人殺しなどの不法な手段で晴らす
→人殺しはやはり人殺しなのだ…と宣告される
→被害者も修羅の道に落ちてしまったのだ…と泣き崩れる


といういつものストーリー、本当なんだかなあと思う。社会的なマイノリティや弱者はどこまでいってもそういう「つらいループ」から抜け出せないのかよ、と思う。その悲しみを、全部背負わなきゃいけないのかよ。蟻地獄なのか。

今回の忌まわしき花嫁は、別に本当に酷い目に遭った女性のその窮状をよくよく伝えたいとか別にそういうのでもなかったので、尻切れトンボな事件の終わり方も要はそこは問題ではなくて、シャーロックのなかの深いところにあった女性という存在への感情を表す演出のひとつだったのでしょうけど。
それが、「罪悪感」みたいなものだというのが、シャーロックが根本的に「いいひと」なのを表してるのかなあと思った。女性がどんな酷い目に遭おうが、それが社会的な不均衡の構造のなかで起きてることであろうが、「どうでもいい」と言えるような人間ではない、ということというか。「男」のひとりとしてその構造の上に乗っかってることを理解している、という意識のなかにさらにそういうことを知っていながら「どうでもいいじゃないか」と言えるモリアーティが立ち現れる、というのもまたなるほど、である。

そういえば「相棒」とか見てても、変人で有名な右京さんが「たとえ何があっても人殺しだけは絶対にいけない」という強固な信念を持っているのも結構謎だ。単にものすごく倫理的なだけかもしれないけど、ほかの色々な部分との整合性が微妙というか…なんでそこだけそんな倫理的なの?と思う。
いや倫理的結構なんだけど、ほかの部分では色々「こんな型破りしちゃうもんね」的なキャラクターなのにそこだけ妙に律儀なのでキャラのなかで浮いて見えるというかですね…なんだろう何がいけないんだろう…??

BBCシャーロックのシャーロックは、その辺の「揺れ」がうまいなあ、と思うんです。
「こちら側」、「殺人は悪」、と言える側に立っているけど、ぐらぐらと揺れててふとすると本当に「あちら側(モリアーティ)」に引っ張られそうな感じがある。
あとジョンも実は「あちら側」に容易に(しかも健康的に)行けそうな感じがあるのもいいですね!(いやていうか実際人殺ししてるし…?)いざとなったらシャーロックより簡単に行けそうだし、シャーロックと違って人格を保ったまま行けそうなところがよい。そういう人物だからこそバディでいられるんだよな~~~バディは対等でこそだよな~~~~だからバディものってやめられないのさ~~~~
※シーズン1第1話でジョンが銃を撃ったあのラストを見たとき、私はバナナフィッシュを思い出した。バナナフィッシュの何が悲しいってやっぱりアッシュがひたすら孤独なところで、英二はどこまでも彼の「対等な」友人ではなかったんですよ。つらい役目は全部アッシュが引き受けてて、英二は「守られる」存在でしかなくてそれがつらかった。天才的な主人公がいたとき、やっぱりそのバディとなる友人も同じように何かを背負わないと「対等」にはなれないと確信してるんですけど、わかってるな!!!!わかってるな!!!!!!!そうだよそうなんだよ!!!そこでピストルの引き金を引くのはジョンでなきゃ駄目なのさ~~~~!!!!!!!!!!!


とにかく世界一カネかけた同人誌っていうのが見終えた感想なんですけど、同人誌の醍醐味って、やっぱり「むちゃくちゃだけどとにかく萌えの情熱が大気圏を突破している」って作品があることだと思うんですよね!!?絵のうまさとか話のよさとかももちろんあるんですけど、とにかく「同人誌でしか出会えない」作品ていうのがあって、なんだこれ意味わかんねーーー!!!!!でもでもわかる!!わかるぞ!!!その高まる萌えをとにかく紙面(画面?)にぶつけたそのパッション!!!すげえよそのパッション!!!!!
ていう同人誌に出会うと「いやーーーーーやっぱ同人誌ってサイコーだな!」てなるんですけど、それだな。その気持ちでした。


それにしても私は自分の萌えポイントを再確認した。
「お互いに心の底から憎みあっている、世界中で無二に憎みあうふたり」
やはりこれだ!これが私のやおいスイッチ!!!!
~憎しみと愛は表裏一体~ これやな!!!!!!!


というわけで最後に、私のサンジ君からのゾロへの想いソングであるこちらを聴いてください…


宇多田ヒカル (Utada Hikaru) - Letters

 

 

 

 

 

 

危険地帯に走っていけ、あるいはここ(アイドル)でひからびる

くるくる

気がついたら一ヶ月以上間があいていた!
新年度ですね。心機一転の季節ですねって感じなんですけど4月1日から熱愛報道!!!!もうね、エイプリルフールにエイプリルフールじゃないことしないでくれる?て感じですよ。紛らわしいよ!!!!

なんかもう熱愛報道出るたびにぐるぐる考えて結局いつも同じ袋小路に迷い込んでるんですけども、今まで自分が書いたものを読んだら本当に同じことばっか言っていた。


先日、友達と一緒に水樹奈々ちゃんの東京ドームライブに行った。観客がすごい勢いで跳んだり跳ねたりしながらペンラを振り上げてすごい大声でコールして皆汗だくになっていた。私はそれを見ながら、SHINeeでこれやったらすぐに「そんな上に手を上げたら後ろのひとがSHINee見えないからやめてください」てなりそう、と思った。実際ものすごいみんな動くので、舞台上の奈々ちゃんをその隙間から追うのは結構大変だった。双眼鏡で野鳥の会してるひとも見かけなかった。
同じ「ライブに行く」という行動をしているけれども、みんな「何を見に行ってるのか」は全然違うのだなと思った。

何度も思うけど、何にしても、気にしないひとは全然気にしないのだ、と思う。そして気にするひととは永久に交わらない。


アイドルの熱愛とか出るたびに、私も勝手に明日は我が身と思って少なからずしょんぼりした気持ちになるのだけど、アイドルだってただの人間だし恋愛くらいするでしょってのはそりゃ思いますし自分がアイドルと付き合いたいわけでもあるまいに、一体何にそんなに悲しくなったりしているんだろう、と考えても考えても結局のところよくわからない。


「アイドル」と銘打つということは、ほかの地域においてはどうだか知らんが、日本においては「すきって言ってもいいよ」と宣言されている「空間」を設置することだと思っている。その「空間」は、ファンはただ「すき」の気持ち一本で押し切っても何も文句を言われないとてもファンにとって「安全な空間」である。

それ以外の空間を考えてみればわかるが、「アイドル」以外の空間というのはなかなかキツいものがある。特に女子のファンに対して。
音楽つったってちょっと「いいね」とか言うとすぐにウンチク垂れる奴が近寄ってくるし、それがよくわからないと「所詮ミーハー」とか言われるしかといって知ってりゃ知ってたで「お前はなかなかわかるやつだな」って何様やねんお前。漫画とかアニメもそうですけども、単なる同じ「ファン」だっつってんのになんでそんな女ってだけで一段下に見られなきゃいけないこと多いの?て話だ。少年ジャンプなんかも本当そうで、「女の読者はいらない」とか暗にどころかおおっぴらに言われることもあるのでもうね、私ら同じジャンプの読者で同じ料金支払ってジャンプ買ってますしっていうかグッズとか含めたらかなりのとこお宅様をよく支えていると思いますけどね?的な。

そういうのが「ない」んですよ、と「安全さ」を宣言された空間が「アイドル」なんじゃないかと思う。うちわに名前書いてキャーキャー叫んだって誰にも笑われない、誰にも「ミーハー」だなんて責められない、「イケメン」をすきで何が悪いって言うんだ、むしろそれが推奨されるくらいの「安全な空間」を提供してくれる、この世界の稀有な存在としての「アイドル」。


問題は、この「安全な空間」が結局のところつくりもの、制限された時間のレンタルだということだ。
アイドルにも現実の生活があって人間関係があって、「アイドル」として振舞いファンの気持ちを受け止めるのは「つくりもの」であるということ、それは限られた時間と空間にアイドル自身の身体を「レンタル」しているということを、知っているけど、どうしても忘れがちになる。


「お金を払ってるんだから、しっかり仕事をして「夢」を壊さないでくれよ」というのがある。
それは、アイドルが結局のところ本当は人工的な「安全な空間」でしかなく、その周りには私たちと同じ現実があると一度知ってしまえばもうそこは「つくりもの」としか感じられなくなってしまう、「夢が壊れてしまう」と感じてしまうということだけど、もともとそこを「夢」だなんて思ってないひとからすれば「一体何を言っているんだ」状態だ。「最初からそんなもん知ってただろ」、あるいは「それ一体何が壊れるというのだ」などなど。


私は、「お金を払ってるんだから」という言葉は本当に暴力的だと思うが、しかし一方で、これが女ファンという存在の唯一の「武器」だとも思う。
さっきのジャンプの件でもそうだけど、「私たちを無視するな、私たちだって同じように金を払ってるんだ」と言いたくなるときというのは、私にもある。「サンジ君(ハート)」て描いたうちわ持って「ワンピース」という空間にいたって何が悪いというのか? 私だってほかのひとたちと同じにお金払ってるわ!と言いたくなるときが、確実にある。このとき、「私だって金(しかも自分で仕事して稼いだ金)を払ってるわ!!」と言うこの言葉は、むしろ私の、「矜持」かもしれない、とも少し思ってしまう。


女が自分の仕事を自分でもってその稼いだお金でアイドルを追う、というのは最近の出来事らしい。

sasagimame.hatenablog.com

drifter-2181.hateblo.jp

mizuki-53.hateblo.jp

こちらのブログが大変興味深かったのだけども、日本ではSMAPより前は、アイドルというのはもっと賞味期限の短いものであったらしい。ファンもアイドルも、大人になれば「アイドル」というものから卒業する、という世界。多分日本以外の世界では、いまだにこっちが主流なんじゃないだろうか。韓国のアイドルも、ファンは学生を卒業すればファンもやめる、というのが大体であると聞くし、欧米なんかでも多分そうだろうと思う。ファンの命も短いから、アイドルの命も短い。
理由は何なのだろうか。イケメンにキャーキャー言うようなことが許されるのは学生まで、社会に出て大人になれば、「そういう子供みたいなこと」はしなくなるべき、ということだろうか。仮想恋愛の世界はおしまい。私たちは現実世界の人間関係を築き、現実世界で恋をする。そういうことなのだろうか。

それがSMAP以降は、アイドルの寿命もファンの寿命も劇的に延びたという。ブログでは、様々な要因が考察されているが、女性の就業率が伸び、一方で晩婚化が起き、自分で稼いだお金でアイドルを追う、ということができるようになったこともあるのではないか、と言われていた。

 

私は、大人になったアイドルと、大人になったファンが、それでも「アイドルとファン」を続けていくための方便が、「恋愛や結婚をしても表に出さなければいい」だと思う。

ティーンのころならそりゃあマジ恋はもう全身全霊をこめたマジ恋だって周囲も「若い子ってそんなもんかな」って思ってくれたりするしアイドルに熱愛発覚して泣きはらしても怒り狂っても「若い子ってそんなもんかな」と思ってもらえる。しかし25歳とか超えてくるとさすがに本人も周囲も「いやいやいや…いやいや…??」となってくる。
多分ちょっと昔なら、そこで普通の「恋」のように終わるものだったのかもしれない。例えば高校の隣のクラスのちょっとしたイケメンみたいな。「カッコいいなー」とか思ってても、大体その子に恋人ができて知らないうちに勝手に失恋してたことを知り、やがて自分も学校を卒業して大人になって、自分にも恋人とかできたりして完全に「そんなこともあったな」みたいな記憶になり、やがて数十年後の同窓会で再会したらただのおじさんになっていて笑うみたいな一連の流れ。
もしかしたら、アイドルはそういうものだったのかもしれない。

しかし今は違う。アイドルもファンも大人になっても「アイドルとファン」をやり続ける。さすがにファンだって、いくらマジ恋でも、アイドルがただの人間でもちろん恋人がいたり家族がいたりするということはわかっている。「恋愛なんかしないでファンのことだけを考えろ」とはさすがに言えない。
でも、でも、「アイドル」に夢を見続けたい、恋し続けたい。

なら、ファンの目に入る部分でそういうことをしなければ、ファンの見えないプライベートでやってもらえるなら、実際のことはもういい、「見ない」ことにする。ファンの目に見える「アイドル」の部分が変わらなければ、それでいい、そういうことにする。実際のアイドル本人のことなんか何も知らんけども、ただファンの前に現れる部分で「アイドル」をやってくれればそれでいい。あとは何がどうあろうと知らなければ問題ない。

そういう方便なのだと思う。本心からというより、大人になっても「アイドル」という期限付きの空間を楽しむための方便。

 

私は、アイドル本人が大公開して恋愛したいんならやれたらいいと思うし、隠したいなら知る必要は一切ないと思うし(なので本人が知らせないものをわざわざスッパ抜く必要はないと思っている)、なんというか「自分はそういうスタンス」と表してくれれば、まあこっちも心づもりができてありがたい、と思うけど現実はそうではない。
どんな芸能人だって、マジ恋のひとはいるところにはいる。必ずいるとは言わないが絶対いないと言い切ることはできない。そしてマジ恋的にすきになったら、たとえなんであっても熱愛とか結婚とかで悲しんだりファンやめたりするひとは、いる。マジ恋的にすきになることは、誰も止められはしない。

アイドルと非アイドルの違いがあるとしたら、それは「マジ恋的に恋しても大丈夫な空間」と認識されているかどうかだと思う。
アイドルは、「マジ恋的にすきになっても大丈夫だよ」、と宣言された場所に見える。なんというか見える人には明らかに見える(そして見えないひとには全く見えない)看板が立ってるような。そしてその看板につられて、そこへ入っていくひとは、その「空間」にお金を払う。
アイドルは、歌やダンスのスキルを売るのではなく、「『アイドル』というマジ恋安全地帯を提供するプロ」として見なされているのだ。だから、「マジ恋」に水をさす行為、たとえば熱愛とか、は、「プロとして失格」ということになる。


問題なのは、アイドル本人が「マジ恋安全地帯を提供するプロ」になりたいのかどうか、だ。
なりたいひとも、もしかしたらいるかもしれない。けども大体は、それを絶対に貫徹するんだという意思で始めるのではないだろうし、気がついたらそうなっていたが今更ほかにできることもないのでやってるということもあろうし、そもそもものすごく若年で仕事を始めるひとが多いから、仮に本人がそう思っていたとしてもやっぱりそれは経年変化するものだし、「子どもの決意」だから周りの大人がきちんと守らなければ駄目だろう。

「マジ恋安全地帯」をある個人に背負わせるのはやっぱり無理なのかもしれない、と思う。マジ恋をするなら、こっちもそれが敗れたときのダメージまで込みで覚悟の上ではじめたい。だが現実そんな簡単に覚悟もできないしいざとなったら暴言をはいてしまったりする。どっちを向いても悲しいのでやりきれない。


一番つらいのは、「マジ恋」の女ファンていうのは「アイドル」以外のジャンルではとにかく馬鹿にされがちなことだ。ミーハーとか子どもっぽいとか、それに「イケメン」という要素まで入ればもうとにかく「そんなやつはファンじゃない」とか「私はそんなファンじゃない」とかそういう声は、聴くとつらい。オタク界隈のほうでも、腐女子に比べると夢女子(キャラ対自分で妄想をする)はあからさまに馬鹿にされていたりする。(かくいう私も夢界隈は通ってこなかった、多分自分のなかにもそういう意識があった)
「マジ恋安全地帯」が必要じゃない、というひとから見ればだからそれを宣言するのをやめろよという話なのだが、それが必要とされてこんなにひとが群がっちゃうのは、やっぱり社会のほうにもそれを必要とするだけの抑圧なんかがあったりするからだろうと思うのだ。

「マジ恋していいよ」と銘打って売り出したのだから当然、そこにやってくるのは「マジ恋していいんだ!!」とマジ恋心を開放しちゃった人々である。マジ恋ファンはどこにでもいると言ったけど、アイドル以外の場所ではどこでも少数派なので、まあ荒れても大した事ないと見なされる。
しかしアイドルの場合ファンのかなりの部分がマジ恋層なので、ひとたび荒れれば大事件大嵐である。なんせマジ恋ファンがマジョリティだから。


そんで最後に。私は「お金を払っているんだ」というのも、「隠してくれさえすればいい」というのも、結局のところ、なんというか「マジ恋」の気持ちを言い換えるための言い回しなんじゃないかと思う。
マジ恋って本当に馬鹿にされるから、それにマジ恋してショックを受けていることを直接的には言うのがはばかられて、それで「お金を払ってる」とか「契約をしている」とか「隠せばいい」とか言って、マジ恋的な気持ちを持っているのではなくて「仕事とわかってすきになっているんだ」ということを、アピールしようとしての言葉なんじゃないかと、思うのだ。「本気で芸能人すきになるとか馬鹿じゃないの」っていう周囲の声あるいは自分の心の声へのアピール。
ていうか自分で自分がマジ恋と認めるのも結構つらい。だから、「そうじゃない、そうじゃないんだけど、」というあがきのうえに出てきたのが、「お金」とかそういうものだったんじゃないかと思うのだ。
「こっちは金を払ってるんだ」とか言い出すなんてまるでキャバクラじゃないかというのを見たけど、まあそうですよね、構造は同じだと思う。「金を払ってるんだ」と言うひとは大体、仕事でやってるひとを本気ですきになっちゃっててそれを自分で認めたくないから言うのだと、思う。


いやもう書いてて悲しさしかない。アイドルをすきになっても結局のところ私の「すき」がアイドルを追い詰めるのかと思うと、悲しい。それもこれも「すきって言って笑われても気にしない」みたいな強い心が私にないから、ついつい安全で都合のいい対象を求めてしまうのだろうか。それって端的に言って処女厨ではと思う。自分最悪だなあ、ということに気づいてしまった。あああ処女厨か…


ますます希望がない。アイドルは「すき」の気持ちと一緒にその他の暗い感情も解き放ってしまうパンドラの箱なのだろうか。
ではその底に残る希望とはなんだろうか。

しかしそれもやっぱり、「すき」の気持ちなのかもしれない。

 

 

 

 

 

何百カラットのダイヤモンドでも足りない TAEMIN Press It

くるくる

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きたね!!!!!きましたね!!!!!!!
テミンさんのソロがついにカムバックしましたよ!!!!!!!!!!

SHINee日本ツアーの神戸と代々木の間が一ヶ月間空いていたので多分ここで来るのかなとは思っていました。予想してはいましたが、まさに神戸が終わった次の日にからもうばんばん情報がドカーーーッと流れてきて瀕死。そして昨日ついに全曲音源とタイトル曲MVが公開されて、動悸が。息切れが。誰か救心をください。

 

とにかく出たビジュアルがすごかった。

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なにこの、ちょっとイテミンという人間を極限まで高めた感じは…ミンヒジン室長!またあなたですか!!!!!!

いやていうかもう本当に美しいしこんなのありなのってくらい本当に美しいじゃないですか。
私、最初にテミンさんをみたときに「今まで生きててこんなかわいい生き物みたことない…!」と思って即座にすきになったんですけど、それは間違っていなかった。
前回のビジュアルも本当に本当にきれいで、見返しては溜息をつくばかりだったんですけど今回は今回でまたすごい、断然すごい。

タイトル曲のPress Your NumberのMV、どうやらこの映画のオマージュではないか、という話でしたね。

映画|アイ ノウ フー キルド ミー|I Know Who Killed Me :: ホラーSHOX [呪]

私はこの映画未見なんで分かりませんが、最近どうもミンヒジンさんはこの辺の洋画のオマージュみたいなのに凝ってるんですかね?めりみゅもロッキーホラーショーのオマージュとかいう話でしたし…ていうか…ていうかさあ…

室長!!!!それ二次創作じゃない!?それ、ものすごく金をかけて本物の男の子でやってる二次創作ですよね!!??
まじかよ、すげーな、SHINeeとか使って二次創作やる?それ、全腐女子っていうか全オタ女子の夢の頂点じゃね??いやいやいやいやいやいや金と権力とセンスがあるオタ女子の夢の頂点だわ!!!夢が叶った!夢は必ず叶う!!なんだよそれ!!!!!!!私だって金と権力とセンスがあったらドラキュラパロとかバナナフィッシュパロとかやるわ!!!!!

なんかもうバブルの時代に壁サーがアニメの本物の声優呼んで二次創作読ませたとかなんとかそういうの思い出したよ。それ商業ベースでやるのかよ!!わかるよ!!!!だって断然儲かるもんな!!?????

個人的にはあんまり二次創作やりすぎるのもどうかと思うんで、二次創作楽しいのは私だって本当に心の底からわかってるけどさ…マフィアパロとか楽しいよね…わかる…わかるよ…マフィアパロも学パロも社会人パロもやった私が通りますよ……ていうかみんなやったでしょ?
でもでも!でもやっぱりせっかく商業ベースにのってるからにはとびきりの一次創作見せて欲しいよ室長。わがままかもだけどでも期待してるんだよ!次のSHINee本体のカムバまじで期待してますよ!!
※最近若い子の言葉遣いがめっきり分からなくなってしまったんだけどもしかして「○○パロ」って言い方、古い…!?○○スキーとかと同じ感じ!?

 

まあそんな感じでついにまず公開されたのがDrip Dropのパフォーマンスビデオなんですが、見た瞬間、もう圧倒されてしまった。


TAEMIN 태민_Drip Drop_Performance Video


ビジュアルもすごかったけど、とにかく曲もすごいし何よりダンスがすごい。
すごい、という言葉しか使えないのが本当に惜しい。悲しい。でも、本当に、すごかった。
ダンスや音楽について何事かを知っていれば、これのどこかどんな風にすごいのか、一挙手一投足語ることができると思うのに、何も語る言葉を持ってない。申し訳ないと思う。

今まででもテミンさんのダンスはすごいなあ、と思っていたけど、今回のこの映像で見ると「すごいなあ」というより、なんて言ったらいいのか、やっぱり語る言葉をもってないけど「すごい」と目を見開いて見つめてしまった。こんなことができるのかあなたは、と思わずにはいられなかった。
最初に「こんなにかわいい生き物見たことない」と思ってすきになりそれは間違いではなかったけど、まさかこんなところに辿りつくひとをすきになったとは思っていなかった。(ていうかいやなんか「すきになる」とか言っちゃって単語おかしくない?書いてて恥ずかしくなってきた。いやでもそれ以外に言いようもないしな。どうでもいいんですけど)

前のACEのときもお金かけてもらったしオシャレにできててよかったねと思ったけど、今回の金額のかかりかたハンパじゃないしオシャレにできてよかったねなんて全然言えない。前回のは今回のの序章だったのか、と思ってしまうくらいだ。とにかくすごい。


そして昨日ついにショーケースがあって、Press Your NumberのMVと全曲の音源が公開された。


TAEMIN 태민_Press Your Number_Music Video


ショーケースにはなんと、オニュさんとジョンヒョンさんとミノくんが来てくれていた。きーちゃんがスケジュールで来れなかったというのが残念だけど、何にしても3人も来てくれてこんなに応援してくれるとは、というのに本当にぐっときてしまった。

ちょうどAERAの表紙とインタビューが出て、ていうかそんな大事なこともっとはやくに言ってくれよという感じなんだけど、私はいつもより朝10分早く家を出てコンビニに寄った。

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「表紙の人」という表紙を飾った人物を紹介する記事があって、そのなかで、編集の人がとにかくSHINeeの仲のよさにビビりたおしてポエム詠んだ挙句最後の一文が完全にライターの心象風景になっていた。
いやなんか最近こういうの珍しいなと思って。
「仲がいい」「仲がいい」ってもう飽きるくらいに言われ尽くした彼らにとってはもう寧ろ言わないほうがいいのではくらいの感じである。当然というか、言い過ぎると逆に怖くなるというか、最近はそんな感じなので仲がいいアピールは逆にしない、くらいに感じていた。
そこへきてAERAの、多分新しくSHINeeを見たのかな、というひとから見るとこんなに印象に残るもんなのか、と思ったところだった。

いや本当のところなんて分からないんですけど、分からないんですけど、でもね、メンバーのソロをこうして他メンバーが応援できるグループはいいなあ、と本当に思ったんですよね。グループの間で人間関係も色々あるだろうけど、運命共同体といってもいいグループのなかで、むちゃくちゃお金かけたソロが出たときに、皆がそれを応援してくれるって本当にいい環境だなと思う。多分それぞれのソロ活動も充実してるからですよね。お互いが充実してれば、お互いに気持ちよく心から応援できるから、それも本当に大事なことだと思うんですよ。だから本当によかったなと思って。


そしてMVを見た。そのあとプルンバムも見た。見ながら寝たけど。
MVはちょっとまだちゃんと2回しか見てないのでなかなか…あの映画のオマージュだと双子の物語になるのかなと思いきやそうでもなかった。なんだろう別々の次元にいるテミンさんが混ざるような感じ?帰ってまたちゃんと見てあとは解析班のお仕事をお待ちしております。
ていうか、悪め?悪めのテミンさんめっちゃかっこいいしすごい!すごいこんな表情もできるんだ!!すごいよ!!!!!私は一番そこに感動した!!!!!

曲もとりあえず全曲聴いてみました。
ジョンヒョンさんがくれた曲いいなあ!!そして、soldierの歌声に私は痺れたよ。低音、いつの間にこんな風に歌うようになっていたんだろうか。こんな声聴いたことない気がした。歌自体もかっこいいしオシャレだけど、歌が、テミンさん歌が、すごいよ、すごいうまくなってる。前のACEのときから比べると全然違うよ。私はびっくりした。まだこんなにうまくなるのか、まだこんなに上にいけるのかと。

ブルーノマーズとかいう私ですら名前聞いたことあるぞというひとの曲を引っ張ってきたりとかとにかくすごいプロジェクト、きっとプレッシャーもすごいものだったでしょう。下手したらSHINee本体よりお金かかってるんじゃないかってくらいだ。
それでも、それを乗り越えてくるパフォーマンス。全部が、私なんかが想像するよりずっとずっと上にいっている。こんなことできるんだ、と眩暈がするくらいだった。私はなんてひとをすきになったんだろうか。


それでいて、こんなに、こんなにどんどん上にいくのに、相変わらずテミンさんはテミンさんなのだった。Vアプリの生放送とかショーケースでも、話しだすと途端に、私たちの知っているテミンさんのままなのだ。キラキラしていて、まっすぐで、話すことはあんまりおもしろくなくて、たまに変な動きをする。笑顔なんか見てこれ。

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もう私見た瞬間に心臓鷲掴まれたよ。パフォーマンスのときと別人みたいに、こんなにキラキラしていてどうしていいかわからない。

変らないことにありがとうとか、本当は言いたくないし、言うべきではないと思うのだけど、上へ上へとたゆまぬ努力をしつつ、それでもこちらを見るときは相変わらずこんなにキラキラとしてまっすぐであることに、本当に安心してしまった。安心していいわけないのだが、心から安心してしまった。
パフォーマンスはどこまでも上が無いのに、「やっぱりテミンさんはテミンさんなんだなあ」と思わせてくれることに心底感謝してしまった。

ダンスとか歌とかそういうことってやっぱりそれに関する知識がないとつっこんだところまでは楽しめないもので、私など小心者なので、ついつい敬遠しがちになってしまう。多分それが、「未熟を好む」という気持ちと繋がっていることは、私も理解している。自分のなかに真っ黒な入口を見つけた気分だ。
「何がすごいのか」なんてちっともわからないのに、それでもこんなものをすきだのすごいだの言っていいのか、大丈夫なのか、という気持ちになる。でもそこでテミンさんがキラキラ笑ってくれたので、安心して見てしまうのだ。ああ私もファンでいていいのか、大丈夫なのかな、と。
情けないけど本当に、その変らないキラキラに本当に泣いてしまった。

自分が安心できるものじゃなきゃすきになれないなんて、そんな自分にばっかり都合のいいようなのは絶対によくない、と自分に言い聞かせつつ、それでもやっぱり安心してしまう。
でも、テミンさんがどんどん上にいくから、本当なら、音楽になんかこれっぽっちも興味がない私にも、こんな素晴らしいものを目にする機会を与えてくれた。それが、本当に嬉しいので、安心だけを求める都合のいいオタク心的なものを私も乗り越えていきたいよなと、心から思った。

本当に、音楽なんぞこれっぽっちも何もわからない人間に、こんなものを見せてくれてありがとうと、言うほかないです。ありがとうございます。

 

などと考えていたりして、でもアイドルって要は歴史ドラマみたいなもんかなと思った。
歴史ドラマは歴史の知識があれば一層楽しいけど、例えば信長は明智光秀に裏切られて死にますってこと知らなくても普通に「ドラマ」として見てもおもしろい、それが大事だと思ってるけど、あれ、アイドルもそうなんじゃないか?「どの層が見てもおもしろい」っていうのを目指している部分が。
場合によっては「んなことありえるかボケ!」と言いたくなるような時代考証の駄目さをみたりするけど、場合によってはトンデモでも勢いで振り切って楽しめることもある。戦国時代舞台のドラマに現代と同じ世界地図出てきたら死ぬほど幻滅したりするけど、でも47RONINは全然アリやな…みたいな。

私ね、大河ドラマ平清盛がめっちゃすきでもうすごい見てたんですけどね、あれ本当にドラマとしても素晴らしいものだったんですけど、時代考証でちょっと画面が暗かったりしたら「画面が汚い」とか言われたりしてね!?視聴率はめっちゃ低かったんです…最低記録を更新したのです…。
時代が、メジャーな戦国時代とかではなかったせいなのか、いやでも幕末の「花燃ゆ」は幕末やっておきながらあの惨状だったし。
SHINeeって平清盛じゃね!?普通にドラマとしてもおもしろかったしでも時代考証とかの面から見てもおもしろかったし、音楽好きなひとたちから見てもおもしろいし私みたいな素人が見ても楽しいなんてSHINeeって平清盛なんじゃない!?て思ったけどでもだめだ視聴率めっちゃ低かったから縁起悪いよくない。

でもね、歴史ドラマみたいなもんかなって思ったら、あ、いいや、私も楽しんでこって思えました。「誰が見てもおもしろいものこそ素晴らしい」、だったらテミンさんも、SHINeeも、私ももっと楽しんで、たくさん見ていきたい、と改めて思えたんですよ。それって本当にすごく大事なことだと思うんですよ、「誰も置いていかない」ということが。信長が明智光秀に裏切られることすら知らないのかよって絶対言わないようなもの。信長ってどうなるんだろう!?て思ってても一緒に信長どうなるんでしょう!てハラハラさせて楽しんでくれる感じ。「知らない」ということを置いていったらそれは誰かを見捨てることだから、それをしないでいてくれるということ。

教養がなくても全員掬っていってくれるのが「アイドル」というフォーマットなのだとしたらそれって本当にありがたい。「ドラマ」みたいなものだ。歴史には興味がなくても、ドラマなら楽しめる。そういうことかと思うと、すごく楽しい気持ちになった。
ていう、心が軽くなったという個人的な話。


デンジャーのとき私何考えてたんだろうかと見てみた当時のブログ。

fuhouse.hatenablog.com

テミンさんは多面体ダイヤモンドの別の面を見せるどころかもっとすごい底の見えないほど輝くカラットのダイヤモンドになって帰ってきたよ。別の面が見えるどこじゃなかった。


いやー、今日も明日も、YouTubeまわしていこう!!ファイティン!!!!!

 

www6.nhk.or.jp

 

 

 

キンプリ見てきました

くるくる
キンプリという単語を最初にどこで見たのか定かではないが、気がついたらTLに「キンプリ…」「キンプリはいいぞ」「シャブ」という単語が流れてくるようになっていた。なんだキンプリって。
ちょろっと絵を見てみて、最初は「このひとこういうのがすきなのかー」的な印象を持つようなひとたちがキンプリはいいぞをやっていたのだが、ふと気づくと「えっこのひとも!?あのにとも!?みんなキンプリ!!??」というメンツまでキンプリを見に行っていた。

どうしたんだ!キンプリってなんなんだ!???

よくわからず、とりあえずキンプリのホームページを見に行ってみた。

……一切意味がわからない。

「プリズム界の頂点にのぼりつめた」ってプリズム界ってどこだよ!!
とほざいていたらフォロワさんから、フィギュアスケートとアイドルを足したような競技(競技?)だと教えてもらった。
ますます意味がわからないぞ。

とにかくTL上のありとあらゆるひとたちが見に行っているキンプリ。もはや腐女子というかオタク?の必須教養となりだしているではないか。ここは、腐女子かつドルヲタとして現在を生きてる私としてはもう見に行かなくてはなならないのでは!!?????
という固い決意のもと、2016年は財政的な面から映画見るのやめようと思ったのに2月19日にしてもうそれを破って行ってしまった。キンプリ、キメるぞ!!!!!!!!!!!!!!


というわけで以下キメてきた感想です。大幅にネタバレおよび褒めてないこともあるのでご注意ください。







たまたま有給を取っており、で平日朝イチの新宿バルトナインに行ったのだが、朝イチなのに席がかなり埋まっていた。平日朝8時半だぞ!!???? この時点で狂気を感じる。ちなみに応援上映ではなかったので、噂のタカラトミー!とか叫ぶやつは聞けなかった。まあアイドルって掛け声やるよね!わかるよ!!

で、始まったんですけどもうなんつったらいいんですかね〜〜〜〜いやもうわからないよ!!!冒頭からいきなり狂気的なきらめきのなかで歌い踊りぐるぐるに回りそして無限ハグ!!!!!!!!つってなんか無限にハグしてくるんですよ。意味わからないでしょ?いやでも無限にハグしてくるんですよ!!!これがプリズムショーらしい。会場(ザハ案の新国立だった?)はペンライトとファンの歓声というか悲鳴に埋め尽くされており、オーバーザレインボウなるそのプリズムショーの主演?アイドル?スタァ??グループはとにかくキラキラキラキラァ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!と歌い踊る。

その会場に遅れてやってきた主人公男子、プリズムショーを見るなり絶句、絶頂。無限にハグされて突如脱衣分裂し喘ぎながら飛翔。
いや意味わからないと思うけどほんとにそうなんだって!!!!!!

すっかりプリズムショーに骨抜きにされた主人公は、帰り道チャリンコこぎながら「世界が輝いて見える〜〜〜〜〜〜!!!!!」とアイキャンフライしてこける。しかしそこに謎の美青年(宝塚みたいな格好)が何故かおり、アイキャンフライした主人公の姿を見て「こ…これはスタァや!!!!!」と、確信。プリズムショーがすきかい!!??と突然スカウトしてくる。あんた誰だ!!!!
この間画面がずっとキラキラキラキラァ!!!!と輝いており、な…なんだこれは…これは…ハッこれがシャブ!?
なんかもう物語とか色々霞むくらい「映像」がすごい。圧倒的映像のシャブ感にやられそうになる。

スカウトしてきたのはそのプリズムショーをやってるエーデルローズとかいう学園???的なところのひとで、主人公はそこに入って自分もプリズムショーをめざすっす!!てなる。オーバーザレインボウもそこの出身で、すごい手短に3人が出会いグループを結成するにいたった話とかをして主人公を励ましてくれる。

しかしそのエーデルローズの宿敵がいるのである。シュワルツローズとかいう謎のブラック芸能事務所なのだが、見ているうちに「シュワルツローズ……ハッ SMエンタテイメント!!??」となった。
※SMエンタテイメントとは東方神起や私の推しであるSHINeeちゃんが所属する韓国の最大手ブラック芸能事務所である。
所属スタァに無茶な練習と笑顔を強い、創設者の賞賛を強要し…SMか!SMエンタテイメントか!お前はイスマンソンセンニムか!!!

とにかくこのシュワルツローズがまたすごくて謎の機械でスタァの卵を特訓したり鞭で打ったりビルの屋上の温泉でみんなで素っ裸の宴を開きシュワルツローズ!シュワルツローズ!!て連呼したりとむちゃくちゃである。なんなんだここ!!!????

そしてオーバーザレインボウの作詞作曲を担当するコウジメンバーがハリウッドにスカウトされて渡米することになる。オーバーザレインボウの最後のコンサート(違うか、ショーか?)、ギリシア風の衣装に身を包んだ3人がラーラーラ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜と歌い踊りそして空からキラキラ999みたいな列車がやってくる。行き先はハリウッドである。コウジはそれに乗り旅立つ。見送る残りのふたりの目には涙が。
この辺は今ちょうどテミンさんがソロ二作目を出してることもあり、あーーーーーーもしSHINeeの誰かがその溢れる才能をメリケンに見つけられて1人渡米とかなったらどうしようーーーテミンさんだけ渡米とか言われたら見送れるかなーーー見送れないかもーーーーーSHINee無期限活動休止とか言われたら私その場で死ぬかもーーーーーーーーーーーーー( ; ; )( ; ; )( ; ; )
と考えていたら悲しくなって泣いた。
コウジがキラキラ999に乗って空へ駆けてゆくとき、泣きながら走って追うヒロメンバーの姿に色んなものを重ねてしまい胸が痛くて泣いた。

旅立って星になってしまったコウジ。行ってしまったことに悲しみにくれるメンバー&ファン。私でも多分こうやってしくしく泣くしかないと思う。
みんながしくしく泣いているこのしめった空間で、今や!今こそプリズムショーでみんなを元気にするんや!!!と主人公はプリズムジャンプを繰り出しまくりまたも脱衣分裂して会場をときめきときゅんきゅんとラブで埋め尽くし救済する。
ここにおいて主人公はプリズムショー界の新たなるスタァとなり人々は笑顔とプリズムショーを最初に見たときのときめきをとりもどした!!!!

fin


エッ 終わり!!!??????シュワルツローズどこいった!?って続編かよ!続編があるのかよ!!!



終わった。こうして私のキンプリ体験は終わった。流れゆくエンドロールを見ながら、なんかすごい映像を見たな…と呆然としていた。
なんつうか宝塚とジャニーズを足して4をかけたような映像だった。もうそれしかない。なんかとにかくジャパンのその辺のエンタメを濃縮に濃縮した原液みたいな映像というか、カルピス原液一気飲み世界が輝いたのち死みたいな?

もうツッコミどころは山ほどあって、というかツッコミどころしかなくて、まずどうもフィギュアスケートのようにリンクのうえを滑っているらしいのだがわりとどこでも開催可能らしくてどうなってんの?氷解けないの?ていうか滑ってるのは氷の上なの??会場じゅうを滑ったりしてたけど一体何の上を滑ってるんだ。

あと対決だあ!!!!つってプリズムショー同士で(?)対決するシーンはもはや完全なる意味不明の異世界となっていて、よしやるぞ!つったら何故か穴だらけのエロいプラグスーツみたいなのに変身したんだけどもうなんか「えっ変身…いや変身くらいするか…いや変身!!!???????」という感じで流していいのかツッコむべきなのかさえわからず。そして謎のピチピチスーツ(穴だらけ)で踊りだすわけだが「最近の先輩はヌルいんよ!」とか「そんな女どもに媚び売りやがってストリートの名が廃るぜ!」みたいなこと言っておきながら、音楽が始まったら限りないアイドルプリズムショーであり「ストリート…とは……!!!?????????????????????????????」となること必至である。
さらにトルネードを起こし空から龍とエクスカリバーを召喚し腹筋でそれを防御し最終的に自爆する気かァ!!!!!!つってドッカーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーンつってドロー。

ドローなのかよ!!!!!!!!ていうか今の本当になんなの!!????
対決終わったら変身も解けて普通の服に戻ったし。えっ何だったの今の!!???変身?????????

噂の「イケメンのケツから蜂蜜」も理解した。蜂蜜出てたわ。パァラダァイス!つっていやまあほんとわけのわからないパァラダァイス原液って感じでシャブ感半端なかった。半端なかった、のだが。


そういう一見わけワカメな表面上の演出とは別に、物語の根底にあるのは、素敵なショーでみんなを幸せにしたい、と願う主人公が、その夢に近づいていくというごくごく王道のストーリーであった。

私はここ数年現実でSHINeeという人々を追っているファンであり、まさにあのプリズムショーでゆらゆらと暗闇にたくさん浮かんでいたペンライトのひとつをやっている。あれは私だ、と見ながら思った。キラキラキラキラァ!!!!!!!!という世界に魅了されてそこにある「幸せ」を享受し、そしてまた去ってしまったひとを思ってペンライトを消して悲しむ、そのたくさんの個別判別不能の個のひとつなのであった。

スタァが、誰も彼も「プリズムショーは素晴らしい!」と自ら信じ、そして「プリズムショーは素晴らしい!」と信じるファンを「幸せにする」ために舞台に立つ。
そこには微塵も、誰かを傷つけたり傷つけられたりというものがない。
そのステージに立つものが、そのステージを全力で肯定してその身を晒すとき、それを見るファンもまた全肯定されて昇華される。

それはファンにとってひどく都合のいい話でもある。

ステージをめぐる諸々については、その大量のファンの視線というものに晒されるステージ上の人物が生身の人間である以上、視線は必然的に暴力になりえるし、その大量の視線、「見られる」ということにおいて、ファンとアイドルは果たして同じ地平に立っているのか、もしかして時にファンはアイドルを「加害」する立場になりえる、というぐらぐらな世界のうえに成り立っている。

お姫様と騎士の話。騎士は力でお姫様を守るが、お姫様は実は身分的には騎士の生死与奪権を持っているのであり、しかしお姫様はこの男性中心社会においては弱者であり、騎士は強者でもある。どちらがどうと簡単には決められない構造のなかで、お姫様が心から騎士を愛し、騎士もまた心からお姫様を守りたいと思っているとしたらそれはハッピーエンドのラブストーリーである。しかしお姫様がその階級による生死与奪権をもって騎士をコントロールし、騎士は逆らえないままに仕事としてお姫様を守るほかないのだとすれば、不幸な昔話である。
そしてお姫様が実はもうすぐ無理やり他国の会ったこともない男と結婚させられることになっており、騎士への恋心からの行動が階級差ゆえに騎士へは「命令」となってその行動を縛っていることを、彼女は半分自覚し、半分は自覚しない。


私たちが求めているのは、心からのハッピーエンドのラブストーリーで、ファンもステージ上の人物もみんながその空間を心から愛している、ということ。
私たちが見たいというより体験したいのは、そのハッピーエンドのラブストーリーの当事者になれるその空間、ということ。

プリズムショーはすべてのひとがプリズムショーを心から愛するラブストーリーだった。
そしてそのラブストーリーは、アニメだからこそここまでやっても「許される」のだ、と思わずにはいられなかった。
現実の人間に、「私を心から愛して」と強制することは決してできない。たとえアイドルが、ステージの裏ではこんな仕事クソすぎてファンもクソだし今すぐ辞めたい、と思っていたとしても、それは仕方のないことで、ただ表面上さえラブストーリーに見えればそれでいい。
けれども、これはアニメだから、彼らが心から彼らのショーを愛していることを望むことができ、また彼らは本当に都合よく、彼ら自身のショーとファンを愛している。

この都合よさは、現実のアイドルにはそこまで望むべきではない、と思いながらも、本当は、本当のところ、本当のハッピーエンドのラブストーリーであることをやっぱり願っている私の願望の原液みたいなもので、それが原液のままキラキラに飾り付けられて出てきた映像がキンプリであった。
とめどなくツッコみながらも、私は心の底から滲み出る、この「都合のよさ」の苦い味を延々と感じで、だから実のところこの映画をあまり楽しめなかった。

あなたは私をすき、私もあなたがすき、これは本当に本当なんだよ!、というこの「都合のよさ」への願望を、どうやって飼いならしたらいいのか。
そんなの願ったらダメだってわかってますよって「きちんとした大人」ぶっているがその実誰より願っているのだ。年甲斐もなく本物のラブストーリーを。心からの愛されてるんですよということを。この願望をあるいはキンプリという原液で留めておければいいのに、できない。


「都合のいい」ものを、自分を絶対に傷つけないものをすきになりたいなあ、と思うのは、傷つく準備ができてないというより、普段傷つくことが多いから、絶対安全な場所を求めたい、という避難と逃避の裏返しだと思っている。
でもそんな「都合のいい」愛ばかり求めることは本当はできないし、やめなければならない。でも自分を変えたり社会を変えたりするのは大変だから、ペンライトを持ってその空間に閉じこもりたい。だって楽だし楽しいしせめてそこくらいそれでいさせてよ。

この苦みが胸にあふれて、全然シャブ効かなかった。現実を思い出すばかりであった。
みんなもキンプリちょっとキメてみて、でも効くかどうかはわからないよ。
私には効かなかった。